CALENDAR
S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< May 2018 >>
MOBILE
qrcode
ARCHIVES
<< 妄想力 | main |
はじめの一歩

 先週末にワークス(靴の専修コース)の第12期生が修了を迎えました。

修了を迎えたといっても、一般的にそのような学校で行われるような卒業展や卒業式のようなものはなく、最終日に1年間ご苦労様という意味で軽食を用意して、一緒にランチをしながら毎年お決まりである(以前のワークス生はみなさんご存知)手づくりの記念品をお渡しすることをしています。そこでその時に思っている事を修了生にお話しするのですが、事前に考えている訳でもなく、その場で生徒達に贈る言葉として湧き出してきたことをお話しするので、ここにその時の話が支離滅裂だっただろうことを踏まえて加筆、校正して記録しておきたいと思います。

 

 さて、みなさんはワークスで1年間を過ごされて来て、入学した当初は当然靴づくりなど経験したこともなく、果たして自分に靴を作ることができるのだろうかと思われていたことでしょう。そして1年経った今、みなさんは立派に靴が作れる様になっている。課題であった基本構造の靴を数種類ではあるにせよ、作れなかったものを作れる様になったということは、単純に凄いと言って良いのではないでしょうか。

 

 話は私事なのですが、先日娘の卒園式に出席することが叶いまして、その時のことを少しお話しさせていただこうと思います。娘の通っていた幼稚園は、何事も諦めずに「できるまでやる」をモットーにされていまして、またそれと同時に何よりも園児それぞれの「できる」は当然違って良いという、園児の性格や特性、いわゆるパーソナリティーを尊重する理念を幹にして教育をされています。そこでの卒園式は一般に見られるような、卒園証書を渡して、みんなで歌を唄って、集合写真を撮るようなそれではなく、園児が年長期に練習してきた側転や懸垂逆上がり、跳び箱などを披露する場としてあるのです。園児はそれぞれ体格や特性の差がありますから、みんな同じく保護者が驚愕するような高さを跳べることが求められているのではありません。自分自身が設定した目標の高さの跳び箱や鉄棒で、その高さがクリアできたらまた一段上へと目標を一つ一つ諦めずに踏破してきた結果を、卒園時に保護者のみなさんへ披露するのです。だから、ハンディキャップのある園児は逆上がりではなく前回りだったりするのですが、それがその子が1年間努力して諦めなかった結果だから、その子だけ違う事をしていてどうかなどと思う保護者は誰一人としていないのです。入園した当初は何もできなかったのに、竹馬や逆上がり、高板登り、側転など、自分の目標に対峙して目の前の小さなことを一つずつ、一歩一歩あゆみを止めなかったからこそ目標にたどり着けたのだと思います。その点で言えば、幼稚園児も大人(実際幼稚園児を見て身を正す人もいるでしょう)も関係ないのだ、ということが強く心に響いた式でもありました。

 

 みなさんは、これから自分の工房を開いて靴で独立を果たしたり、他の仕事をしながらも靴づくりを続けていったり、自分やご家族の靴を作ることだけでも生活を豊かにすることが可能になるでしょう。靴にどのような形で関わっていかれるとしても、目の前の小さな一歩を踏み出さなければ何も始まらないのです。また言い換えるならば、どんな偉業や成功も或る日突然そうなったのではなく、必ず「はじめの一歩」があったということなのです。以前からワークスの卒業生等によく言っていることがあります。靴の仕事で独立したいのなら、職人さんの元で何年も修行して靴づくりの技術を学んだ人も、学校で1年修学して何とか基礎だけ習得した人も、靴づくりで独立して社会に出るということに関してはスタートラインは一緒だよ。ならば経験は1年そこそこでも、先に一歩踏みだした方が早く自分の目標に辿り着けると思わない?

 

 ワークスの入学説明会の冊子には、靴づくりは自分自身の生き方の表現であると書いています。手づくり靴は自分の手の内のことなので、自分が作りたい靴、作ってあげたい人、作っていきたい環境、そして望む社会を靴を使って表現すればいいのだと。だからといって、手づくり靴は一人だけで何でもできると謳っているのではありません。それでは独り善がりでしかありません。実は手づくり靴が成り立つためには、逆に社会でそのことが必要とされ、人々に求められていなければならないのも事実なのです。自分自身の存在は他者に生かされているという思いを持つことが、独立独歩で靴の道を歩んでいこうという心持ちとは背中合わせで、逆も真なりと言えるのでしょう。

 同じような意味のことを、京都市立芸術大学学長の鷲田清一氏が平成29年度卒業式式辞で明快に述べられおられます。私なりに解釈したところを、搔い摘んでいて恐縮ですが紹介させていただきます。

 

 「わたし」というのは、銘々がそう思っているほど確固としたものではありません。「わたし」の表現とは、じつは「わたし」の存在が負っているものすべての表現でもあります。その意味でいかにプライベートに見える表現も、同時に「時代」の表現なのです。そう考えると、「わたし」は、じつは時代がみずからを表現するときの<器>のようなものだということになります。そういう<器>として「わたし」に何ができるのか。みなさんにはそういう視点をいつも持ってほしいと思います。

 

 芸術についていえば、みなさんは内にある何を「表現」というかたちで外へ押し出すかをずっと考えてこられたと思います。けれども<器>という考え方は、これとは違います。<器>は何か別のものに充たされるのを待つからこそ<器>なのです。

 

 今日、みなさんの旅立ちへの餞の言葉としては、みなさんにはどうか芸術を人生の軸として生きることは、独創的な表現の<主体>になることではなくて、社会の<器>になることだということを心に留めておいて欲しいと思っています。

 

 

 器について言えば、民藝運動を率いた柳宗悦は、日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」があると説きました。靴もいってみれば足を受け止める器のようなものです。そして歩くことを厭わず、健やかな生活を送ることに寄り添うような靴が「美しい」靴だと言えるのではないでしょうか。

 みなさんも、自分が目指す美しい靴、良い靴とは何かを探求しながら、いままで支えてくれた人達や社会の中で何かを充たしてあげられるような、質素でも美しい器になれるよう、目前の一歩を踏みだしてください。

 

| works | 12:16 |