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革靴の未来

JUGEMテーマ:学問・学校

来春のワークス(靴の専修学校)からアスレチックシューズコースを新設することにしました。

2006年にワークス第1期が始まってから17期(17年目)までは一般的に革靴といわれるものを中心にした修得コースでしたが、思うところがあって来年の18期から今までの一般革靴に加えて、アスレチックシューズ(運動靴)専攻というコースを設けることになりました。

思うところというのはここ数年考えていたことなのですが、何故今アスレチックシューズなのかという理路をザックリですが丁寧にご説明しようと思います。

 

手作り靴といったとき、みなさんはまずどんな靴を想像しますか?

やはり靴職人が背中を丸めて膝の上でトントン靴を作っている映像が頭に浮かんでいるだろうと想像するように、何といっても革靴ではないでしょうか。20数年手作り靴を広めてきた中で、自分の手で靴が作れると思っている人はまだまだ少数であると実感しているところではありますが、昨今はyoutubeやTikTokなどの動画サイトで、靴を自作する動画が人気を博したりしているところをみると、また第何次かの靴作りブームが到来し始めているのかと思っているところです。

 

さて、そんな革靴ですが国内の革靴の販売額の推移を見てみると、2021年は4年前の2017年比で40%も減少しています。2019年からのコロナ禍の影響を多大に受けているということも原因にはあるでしょうが、近年の靴市場は全体的に縮小傾向であることは否めません。革靴と共にスニーカーに代表されるゴム製布靴も同年比でマイナス20%と減少傾向ではありますが、健康志向の高まりから、ウォーキングシューズやランニングシューズなどのアスレチックシューズ(運動靴)の需要が増していることや、今後ファッションのカジュアル化が進んでいくことを考えると、益々アスレチックシューズの存在感は増していくと考えられるでしょう。

 

先程、コロナ禍で革靴の需要が減少したことに触れましたが、国内の革靴市場を牽引しているのは何といってもビジネスシューズです。いわゆる仕事に行く時に履く靴のことです。あとは冠婚葬祭用の靴として革靴を買われる人が多いのではないでしょうか。コロナ禍でリモートワークが増えて会社に行かなくても良くなり、冠婚葬祭などが敬遠されたことも革靴需要の減少に影響したようです。

そんなビジネスや冠婚葬祭用の靴に関しても、インフォーマル化(カジュアル志向)が進んでいくと考えられます。

以前、昭和時代のファッション事情について話を聞く機会があり、昔はTシャツは下着という認識で、当時の若い人達は下着で外を歩いていると揶揄されていたと話されていました。現代ではTシャツは立派なファッションアイテムになっているのだから、時代とともにファッションはドレス・ダウンに進んでいく傾向にあるんだとか。

そう考えてみると、ちょい昔、男性用のフォーマルシューズはオペラパンプス(エナメル革の男性用パンプス)でしたが、現在ではオックスフォードといって、内羽根式の紐履がフォーマルシューズの代表格になっています。オックスフォードという靴はその名の通り、イギリスのオックスフォード大学の学生が履き始めたことに由来するといわれていますが、名門学校の正装であった編み上げ長靴を堅苦しいと思った学生が短靴にして履いてしまった、ドレスダウンの象徴のような靴だと伝えられています。そんな靴が現在では冠婚葬祭や公式行事に履いて行っても恥を掻かないフォーマルな靴というのですから。

 

さて、ちょっと遠回りが過ぎたように思いますが、それらの靴の現状を踏まえると、よりシンプルでカジュアルな靴が求められていく趨勢なのだろうと予想します。当然、健康や身体を意識した靴、高齢者や足に不具合を抱えた人をサポートするような靴に注目が集まっていくでしょう。伝統的な作りの重厚な革靴よりも、機能的で軽快な靴にシフトしてゆくだろうと思われます。靴のアッパー(表革)は動物の革からシンセティック(合成)革へ、ソールは革底からゴムやウレタンのソールに変わっていくでしょう。

もう一つ考えなくてはならない変化として、今後靴職人に限らず何かを作り出すという仕事をする人は、環境問題を意識しないでは立ち行かなくなるでしょう。靴の作り手は革を扱う者として家畜や食肉の問題とも向き合わないといけません。接着剤や合成ゴム・樹脂なども環境対応のものを使って然るべき時代がもうすぐそこに来ているはずです。植物由来の合成革や合成ゴム・樹脂類が研究開発されて商品化になるのももう遠い未来ではありません。

 

冒頭で革靴を自作する動画が人気を博していると話しましたが、その種の動画で作られる靴は決まって手縫い革底の靴です。動画として見てもらうためには出来映えや作業のエンタメ性が求められるのは承知していますが、ハンドソーンや手縫いマッケイというような靴は、古典的で手間がかかるが故に高価な靴の底付け技法であって、もう既に生活者の日常靴ではないのです。作りが巧妙でクラフトマンマインドを刺激されるので、趣味の靴づくりとして残っていくことは何の異議もありません。僕が創業以来セメンテッド(接着)靴に拘って作っているのは、それが誰でも作って誰でも履ける日々の靴として相応しいと思っているからです。

 

それに関してちょっと面白い話を一つ。

工房では自転車用シューズを作って競輪選手に提供しているのですが、手作りでといってもソールには飛行機やレーシングカーで採用されているカーボンを使用したもので、ワールドカップやオリンピックでも使用されているように、自転車用シューズとしては最先端の作りをしていると言っておきましょう。ある競輪選手が有名な外国選手に、日本の競輪選手ではまだ革底の自転車シューズ(昔は自転車用シューズや野球用スパイクも革底の時代があった)を好んで使っている人がいることを伝えたところ、その外国選手からは一言「クレイジー!」と言われたそうです。

靴の進歩を語る上では、昔は軍靴が靴の開発においては大きなアドバンテージをもたらしましたが、機能的で足の構造に働きかける靴としては、現在も今後もスポーツ分野が先頭を走っていくことは間違い無いでしょう。

登山靴を例に取っても、昔は登山靴は重厚で堅牢な手縫いのものが良い(登りやすい)と言われていましたが、今はエベレストに登るような登山家は皆、マイナス30度の過酷な環境にも耐え得るセメンテッドのゴム底靴でより軽いものを求めて最高峰を制覇しているのです。

 

時代が求めている靴、人々が求めている靴を考えた時、アスレチックシューズ(運動靴)という選択肢が出てくるのは自明の理だと思うのです。来期からは一般革靴のコースと共に新設アスレチックシューズ専攻コースを携えて、靴の未来を見据えた手作り靴を広めていこうと決意を新たにしています。

 

最後に、100年後の靴の有り様を予想して終わりにしたいと思います。100年後はこれを書いた僕も、読んだ皆さんも生存していないと思いますので検証不可能ですが、100年後は冠婚葬祭や各国首脳会談、ノーベル賞の授賞式でのフォーマルシューズは、黒のコンバース・オールスターで良いということになるでしょう!なんてね悪しからず。

| works | 20:40 |
無意識を意識すること

JUGEMテーマ:学問・学校

僕が靴づくりの道に入って今年で22年目を迎えることができた。この道に入るきっかけをくれた師は、当時靴を作るのは玄人職人の仕事だと誰も疑わなかった時代に、市井の一般素人が自分の靴を自身の手で作るという、今日の靴づくりワークショップの礎を築いた人で、五十の手習ではないがそれを志したのは年齢50歳を数えてからと聞いていていた。自分も今ようやくその年齢を超えて、新ためてこれからの靴づくりや仕事のこと、生き方のこと、僕らが老いて退場した後のその先を生きる若者達への思うところを今後言葉にしていけたらと思っている。

 

まず最初は、そういった先駆的に物事を実現できたり、ある分野でイノベーションを成し遂げられるような人はどういう理路(思考回路といってもよい)でそうなるのだろうと考えてみた。これから何かを始めたいと思っている人や、もしくは現在その道半ばで悩んでいる人がいたら、それを解決するためのヒントのようなものになってくれたら面白いだろうと憶測している。

 

さて、あなたが何か新しいこと、他に誰もやったことがないような革新的な何かを成就したいと考えていたとする。何ができるか?こんなことをしたら面白いことになるぞとか世間はびっくり仰天するかなとか、自分で考えを巡らせたり推測できたりすることは、もう既に誰かが実現してしまっていることが殆どだと言えるだろう。

それは無意識に見聞きした自分の経験から弾き出されたアイデアなり未来予測であることに他ならないからである。今までの自分、いわゆる経験的なところから出てくるものは自分の枠の中にあるのであって、その枠の外に出ない限りは本来の意味でのブレイクスルー(革新的突破)は無いと言えるだろう。

では、どうやったら自分の殻を破って新しい自分に成れるのか?一つ考えられるのは、自分というのはこんな存在だから、その逆を張ってみようという考え方。それではまだ不十分だと言わざるをえない。自分という枠を基準として、それを意識すること自体が自分の思考に囚われているのにまだ気づいていない。

無意識を意識すること。ではどうしたらいいの?という声が聞こえて来たように思うが、そういう時僕なら「天の声を聞きなさい」と応えるだろう。間違っても変な宗教に入信している訳ではないので悪しからず。

 

自分が考え得るところの「私」の箍を外すのに一番単純で有効な手立ては、私以外の誰だか分からない者の声を聞くことではないだろうか。何者かが耳元で囁く声や夢で遭遇した突拍子もない出来事、墓前でご先祖様が言われたように感じたことなど、それは意表を突いて衝動的にやりたくなった事柄へ一歩踏み出す勇気を後押しているようにも思える。もしくは自分に眠っている本能を呼び起こしていると言い換えることができるかもしれない。

 

世間一般的に考えれば、そんな絵空事を大の大人が進言することではないと批判的に思われるだろうことは承知している。何だか抽象的だし実現性がない話だと思ったあなたがいたとしてもいいだろう。でも逆に言わせてもらえるなら、抽象的で夢物語的なことを現実世界に鮮やかに描き出す人のことを、イノベーターとか先駆者と呼ぶのではないのだろうか。

 

さて、大事な決断や自分でも予期しない選択の岐路に立った時、あなたなら天の声に自分の身を任せる勇気はありますか?

支離滅裂な夢のようなお話でしたが、一歩踏み出す勇気が出ない時はどこからともなく聞こえて来る声に耳を傾けてみても悪くないのかもしれない。

 

本日、第16期WORKS秋期の1年間が無事修了しました。

| works | 16:16 |
最後のご挨拶として

JUGEMテーマ:学問・学校

誠に急なことではありますが、今春の4月から手づくり靴の専修科「WORKS」は毎週日曜日の10時から18時までの時間に引越しをすることに決めました。

今期で17期(17年目)を迎えるWORKSですが、2006年の開講当初から16期までは水曜日から金曜日の10時から14時という平日ど真ん中の日時を設定していました。その日時を設定したのもそれなりの理由があってのことなのですが、歴代のワークス経験者や入学説明会を聞いたことがある人は「あれっ」話が違うと不信に思うかもしれませんので、その決断に至った経緯を書いておこうと思います。「あれっ」と思った人は是非お読みください。

 

以前までのWORKS入学説明会では、開講日は平日の水曜日から金曜日で時間は10時から14時という日時だと伝えていました。ホームページの生徒募集告知でも開講日時については特に記述していませんでしたので、当事者は説明会に来て初めてその開講日を聞くことになります。説明会に来た人が初めにその日時を聞いて質問することは決まっています。土曜・日曜日に開講されるコースはないですか?平日だと仕事があるので通うのは難しいのです。概ねそのような感じと意味合いでしょうか。

そんな質問をされたときには決まって、この時間は「覚悟の時間」です。と返答していました。では覚悟の時間とは何?と思われるでしょう。

それは何か素敵な新しいものを手に入れるには、それなりの代償を差し出す必要があるなんてことを言うつもりは毛頭ありませが、新しい世界の扉を開くとか今までの自分の殻を破るという時には少々過激な変化がないと物事がそっちの方向へ転がって行かないというのは、多少の経験則で分かっているからです。荷車やスタックした自動車を人力で押すことをイメージしてください。最初の動き始めが一番力が必要で、少しでも動いてしまえば後は少ない入力でも行きたい方向に車輪は転がっていくが如くと言いましょうか。

という理路で、これまでにWORKSに入学した生徒達は、仕事の時間を会社に相談して自ら調整に奔走したり、或いは退職して一念発起靴づくりに臨んで来た経緯があるのでした。ここまでの話を受けて、「あれっ」と思うことの意味が当事者ではない人にも分かってもらえただろうと思います。

 

さて、ここからがそのWORKSこだわりの「覚悟の時間」を止めてまでした、「覚悟」とはいかなるものかとう言う話をしようと思います。ちなみに一旦話は逸れますがまた帰って来ますので暫しの猶予をお願いします。

 

今から24年前に靴職人(入学前はそういう認識でしたが)を志して入学したのが、原宿の明治通り沿いに工房を構えていた「moge workshop」でした。当時は都内で靴の学校というと、東京都の製靴職業訓練校だった台東分校、神戸の靴資材商社が母体のエスペランサ靴学院、そして手づくり靴で独立独歩、自由自在に生きてゆく術を手渡すモゲ・ワークショップの3つでした。他にもあったかもしれませんが、この3校が代表的でかつ対照的な靴学校であったのは紛れもなく事実であったと記憶しています。

台東分校は言うまでもなく職業訓練校だったので、東京都の靴産業を下支えする人材を輩出するのが目的でした。エスペランサ靴学院は勝手なイメージを言わせてもらえばいわゆるデザイン系で、靴の企画問屋や靴メーカーのデザイナーや企画部門に就職する卒業生が多かったように思います。

そして我がモゲ・ワークショップはと言うと、前述の2校は毛色は違えど同じ既成靴業界のフィールドでの事業や活動であったのに対して、既成靴業界(メジャー)に背を向けて、靴は個々の身体性を重視した生活具と言わんばかりに素人(マイナー)でも自分で自身の靴を作ることを奨励し、日本で初めて靴づくりのワークショップを広め、その担い手を輩出する学校でした。

 

元々広告代理店にいたモゲワークショップの主宰者であるモゲさんが、靴のテストマーケティングとして自前の靴問屋業に携わったのが靴の世界に入るきっかけだと聞いたことがありました。その頃は(現在も少なからずその兆候はあるのですが)靴づくりは靴職人=「玄人」の領域で一般の生活者=「素人」に作れるものではないので、邪道なことはしてくれるなと言う態度が業界側には根強くあったそうです。そういう旧態依然とした既成靴業界が作る靴が正道と言うならば(靴の本意とは何かと考えるならば既成靴の方が邪道になるのだが、その話はまた違う機会に)、靴業界からしたら邪道の路を独立独歩、個の力で歩んで来たのがモゲ・ワークショップだということになるでしょう。そして、これからはマイナー(個の力)がメジャーを凌駕する、「マイジャー」の時代が来るとモゲさんはよく言っていました。

現在、日本全国に広がっている手づくり靴工房の源流はモゲさんにあるという明白な事実が、何を語っているかはここまで読んできた皆さんならお分かりになるのだろうと思います。

残念ながらモゲさんは一昨年に御逝去なされて、自分の学舎であるモゲ・ワークショップはもう存在しないのですが、その志を継ぐ者たちによって「自分の靴は自分で作る」という潮流は今後もその勢いを増してゆくだろうと想像するところです。

 

そんな所とは露も知らずに初心は靴職人になるつもりで入学したモゲ・ワークショップでしたが、自身も公務員という安定した職を辞しての決断だったこと、家族を含めて周囲に賛成してくれる人は殆ど皆無だったことをして、いわゆる反体制的なモゲ・イズムに共感していくことは自明の理だったと思います。そうやって自分自身の感覚で世間の常識という名の価値観を疑いながら、手づくり靴の世界で生きてきて22年目を迎えました。

卒業した当時はまだ今のようにインターネットで検索すれば情報が溢れ出るようなことはなく、ヤフーやグーグルといった検索サイトもまだ存在していませんでした。そんな中で本当に手づくり靴で独立して生活し、自立して家族を養い、極端な話は「生きていく」ことができるのか不安しかありませんでした。それでもモゲさんと同じことをしていけば規模は小さいながらも何とかなるだろうと、未来に手づくり靴での自立を目指している人達がいたら、小さいながらも自分が道標になろうという想いでここまでやって来られたように思います。

 

そして今、コロナ禍でのワークスや手づくり靴の未来を想像するとき、自分がそうであったから、モゲさんがそうであっただろうから、自分が主宰するワークスの入学希望者にも邪道の正道を求めてしまっているのではないか、と問いました。

モゲワークショップも私が卒業した何年か後に平日クラスを止めて、日曜日と祝日だけで完結する靴学校にシフトしていきました。反逆児が世間(メジャー)に迎合しているのではないのか、その当時はモゲワークショップで培ったことが否定されたような、少し寂しい感覚になったのを覚えていますし、現在でもその感覚は消化しきれていないと思います。

 

晩年のモゲさんはパラレルキャリアを推奨していて、これから先が見えない時世において、どんな状況でも生きてゆける術はいくつあっても困らないでしょうという考えからだったのだろうと推測します。仕事を持ちながらも手づくり靴の知識も身に付けていれば、有事の際に生き残る確率は単純に2倍になります。

自分にはもう後がない(実家には勘当されて靴の道に入った)状況からの再出発だったので、そういう環境の人は応援したいという気持ちから、無意識に同じような境遇の生徒を求めて作り出してしまっていたのではないか。

つまりは、型にはまった型破りを推し進めていたようなもので本末転倒ではないのかと。

先が見えない世の中だからこそ、既存の価値観や世間の常識に捕らわれて動かないでいるのではなく、そこからどんな敵が出てこようとも全ての使える武器を駆使して生き延びてやろうというのが、真の反逆児、正道たる邪道なのではないでしょうか。

 

という理由で、今年の4月からワークスは日曜日限定講座「サンデーWORKS」として心機一転開講することになりました。

この選択が正しかったのか、まだ目前の霧は明瞭に晴れてはいないですが、壁が現れた時はあれこれ測ったり計算して思案しているより、とりあえずヒョイっと飛び越えてみる!という方を選ぼうと思います。たとえ失敗しても次に上手く越える方法が思いつくきっかけにはなるはずです。

 

「頭で考えるな、手で考えろ。」手が教えてくれるとは、私がモゲワークショップのモゲさんから教わった言葉です。

こんな生き方に共感して自分も同じように手づくり靴の世界を自身の足で歩んでみたいという人は、人種、性別、学歴、経験など問わず、どんな人でも靴のつくり手になることができます。

 

最後に、今は亡き手づくり靴のパイオニアであるモゲさんのご冥福をお祈りして、この文章を謹んで贈ります。

| works | 15:07 |
チャンスを掴む

JUGEMテーマ:学問・学校

約1年ぶりの投稿になるでしょうか。去年の今頃はというと、未知のコロナウイルスによる感染拡大によって第一回目の緊急事態宣言が出されていました。靴工房においても、昔から大事は小事より発すると言うように、先んじて大事を取って2ヶ月間工房を閉鎖していた頃です。そこから先一年間は、感染防止対策をしながら生徒さんの安全と工房の存続を両立することがメーンテーマだったので、今思うに自分の考えや気持ちを言葉にして書くというところまで身体も心もついて来ておらず、その当時に置きっ放しになっているような感覚とでもいうのが正直なところでしょうか。

さて、そんなコロナ禍が現在も継続している最中に一年ぶりの投稿を書こうと思ったのは、今春からワークスに入学した2人の生徒への祝辞のようなものとしてです。新入生やこの工房の卒業生にも読んでもらえると嬉しいなと思って書きました。勿論その他の方もお時間がありましたらどうぞお読みください。

 

「チャンスを掴む(掴め)」という言葉があります。その言葉を発したり誰かに言われたりする時は、チャンスを掴むことそのことよりも、行為の積極性やチャレンジ精神のようなプロセス自体を尊重する価値変換がなされているように思います。彼はその積極性ゆえにチャンスを掴めた、彼女はチャレンジ精神が旺盛なので将来チャンスを掴めるだろう、などというふうに表現される。でも逆に、もし誰かがチャンスを掴めないとしたら、それは暗に旺盛な積極性や困難にも立ち向かう努力が足りないからだと責められているのと同義なのだと思います。そういった世間的な認識や風潮を踏まえて、ノグチ靴工房的な「チャンスを掴む」方法というのをお伝えできればと思っています。

 

worksは今期で16期目を迎えました。春期の入学生は2人です。4月当初は1人の予定でスタートしましたが、一週間遅れてもう一人が入学することになりました。通常の学校や教習施設では、当日入学試験を受けられなかったとか期日までに入所手続きが間に合わなかったという場合は、その学校なり施設には入れないことは一般的に周知のことだと思います。

そして、今期ワークスが始まったその日に彼女からメールが届きました。3月いっぱいで仕事を退職したので、是非春からのワークスで学ばせて欲しいと。

通常ワークスは、事前に入学のための説明会を受けることを必須にしていて、あとは希望すれば誰でも靴の作り手になれるとうスタンスでやってきました。もし彼女が初見でしたら断っていた可能性もありますが、実は5年前の説明会に来ていたことを朧げながら覚えていました。もちろんメールへの答えはイエスです。ではどうゆう理路で彼女は入学への切符を手に入れた(チャンスを掴んだ)のでしょうか。

 

大事なことは、彼女が一般的には入学不可能な状況をその積極性を発揮して無理筋だが突破したとか、可能性が低いような事案に果敢にチャレンジしたことを評価されて特別に入学を許可されたという話ではないということです。

 

チャンスを掴むというのは、例えれば未知の扉をノックして開けるようなものだと思っています。その扉は向こう側からは開かれません。こちら側から開けなければならない扉です。でも闇雲にノックして数撃てば当たるが如く開けていってもだめで、開けた扉の向こう側に誰かが待っていてくれないと真の扉が開いたとは言わない。そういうイメージで想像してみてください。

積極性やチャレンジ精神で扉の前までは来れるかもしれませんが、そこから先に誰かが待っていてくれるかどうかは別の話です。

では、扉を開けた時にそこに待っていてくれる人がいるためにはどうしたら良いか。それを導く鍵は信頼と希望です。

その扉を開けたら必ず誰かが自分を待っていてくれるという信頼と、扉の向こうのまたその先への純粋な希望です。扉を開けることが成功への手段であったり、超絶難度の扉を開けることそのこと自体が目的だったりしたその先には、残念ながら誰も待っていてはくれないでしょう。

 

彼女の場合は、説明会に出席した5年前は仕事への責任もありワークス参加は断念せざるを得なかったのだろうと思います。でも靴をつくりたい、作って誰かの役に立ちたいという思いを5年持ち続けて、やっと扉の前に辿り着いた。そしてあの時説明会で話したことを今もその胸の中に大事にしまっておいてくれたことで、開けた扉の向こう側に僕や、そのまた先に靴を作ってあげたい人や、将来彼女の靴に救われる人たちが待っていてくれるのです。

世間一般の皆さんは、そんなの絵空事だと思うかもしれません。でもこうやって実際に扉は開かれたのです。

 

ですからワークスの入学案内にはこう書いています。

今、未来への扉が開かれました。「ようこそ手づくり靴の世界へ」

 

 

| works | 18:14 |
失敗のススメ

JUGEMテーマ:学問・学校

今年でこの仕事を始めて20年目になりました。WORKSという靴づくり専門課程を設けてからは、今期で15期を数えることになります。この節目に、僕がWORKSで靴づくりを教える意義のようなものをもう一度考えています。

教育って「教わらないことを教えること」だと、以前この場で書いたことがあります。学校で教わったコトそれ自体には、それほど重要な示唆は含まれていないと言いました。学校を出た後に社会へ出て、そこで学んだことがそのままの状況で再現されて解決に至るというようなケースはまずないと思われるからです。未知の世界(未来)をどう生き抜いていくのか、正しい解答を知らない時に、正解を導き出せるような経験や方法を学ぶことが必須でしょうという考えから来た言葉です。

そういう思いを抱いてWORKSという手作り靴専門課程を設けて、日々生徒たちに接している訳なのですが、「教わらないことを教える」という方針はどのような教え方かとよく聞かれます。端的に説明すると、聞かれてもすぐには回答せずに考えてみなさいと教える。生徒が実際やってはみたが上手くできずに悩んだ末に質問してくるか、失敗して困って途方に暮れていると何かヒントを教えるという具合でしょうか。つまり、「失敗するための教育」といっては言い過ぎになるでしょうか。

昨今は、高い授業料を払っているのに失敗させるとは何事だと怒りだす親御さんもいるのかなと想像しますが、ちなみに今までそのような経験は幸いにしてありませんでしたし、もしそのように自分の子を管理している親がいるとしたら、残念ながら子どもの生きる力を殺いでしまっているのに等しいと言わざるを得ないでしょう。

 

アメリカの『Psychological Science』に掲載された論文によると、人の脳は失敗の経験とそれを能動的に解決しようとする意欲によって成長すると発表されています。元になったスタンフォード大学の研究調査では、ニューヨーク市の5年生400人を対象にあるパズル問題を解かせて、半分のグループには頭が良いと「知性」を褒める対応をし、もう半分のグループには一生懸命よく頑張ったと「努力」を褒める対応をして、その後の各グループの成績を追跡調査したそうです。

研究者の二つのグループ間にそれほど大きな違いは生じないだろうという予測を大きく覆して、5年生たちには劇的な影響力があったと報告されています。

結果的には、「知性」を褒められたグループは成績が伸びないか落ち込み、「努力」を褒められた方のグループは劇的に成績が伸びたということです。知性をほめられた子どもは、自分を賢く「見せる」ことに留意して失敗を恐れ、難しい問題に挑戦したり、間違いをおかすリスクをとれなくなるのだと説明しています。その逆に「努力」を褒められたこどもは、失敗を理解し、失敗から学び、よりよい方法を編み出したいと思ったのでしょう。彼らは、たとえ最初は失敗しても挑戦することを望んだので、その経験により後により高い成績を得たのだと結論づけています。

 

最近の嬉しいニュースで、韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』がアジア映画で初めてアカデミー賞の作品賞、監督賞を含む4冠という偉業を達成しました。その受賞者インタヴューで監督のポン・ジュノ氏が紹介したのは、名監督マーティン・スコセッシ氏の「The most personal is The most creative」(より個人的なものが一番創造的である)という言葉でした。映画を勉強していた学生時代に深く心に刻んだ言葉だそうです。

 

よく「自分探し」という言葉を使う人がいますが、僕はあまり好きな表現ではありません。

今の自分は本来あるべき姿(身分や年収や才能?)ではなく、自分以外の何かに不当に虐げられて現在の状態で我慢させられていると言わんばかりと考えてしまうのは穿った見方でしょうか。

前述した「The most personal is The most creative」は受け手によって様々な解釈が可能だとは思いますが、僕はこう考えます。「探さなくても、唯一無二の自分という存在に気づけば良い」

個々の資質を存分に発揮することは、自分自身を表現する最も有効かつ最大に創造的なのだということです。

だから、そういう「自分には他の居場所があるはず」だと思っている人には、自分の好きなこと、熱中できることを突き詰めてやりなさいと言いたい。

 

手で何かを作る、とりわけ人が生きる上で必要とするものを作るということは、自分自身を見つめる(探す)のに大変有効な装置となり得ます。日々食べるために料理を作ること、それもなるべく美味しく作る。生活のための道具を作る。例えば普段使いする器を土から練って作る、素材から吟味して着心地の良い服を仕立てる、足に合わせて木型から靴を作ることもその一つでしょう。

靴に関して言わせてもらえば、どんな靴を作りたいか(どんな靴なら喜んでもらえるか)、どんな場所(環境)で作りたいか、どんな人たちと作りたいか、そしてどんな社会を実現したいのか?そういった靴づくりに付随する全てのコトガラが自分自身を形にしていくのです。そして気がついたら、自分が一本の幹のようになって、どんな状況に遭遇してもどんな人と対峙しても、決して微動だにしない太い芯が中に存在していることに気づくでしょう。敢えて言うなら、それが探していた自分だと思います。

 

失敗することに学びの意義があるとするならば。人は失敗なくして成長しないならば、自分がやりたいことに挑戦することや未知の経験をすることにもう躊躇する理由は見つからないでしょう。

それが自分の生きる力を最大限に引き出す方法で、その環境が自分を確立する最高の学びの場になるだろうからです。

 

最後に蛇足ですが、春期のWORKSでみなさんの失敗への挑戦を待っています!

 

| works | 15:44 |
教育ってなんだ

 先月に引き続いての投稿なんて、僕にしては稀有なことだと自分自身でも驚いてしまいますが、教育(何かを教えること、教わること)について所見を書きました。

 

教育って何だ。

字のごとく教え育てると書くように、教育することの目的は教育することによって人を育てる、教育を受けた人たちが成熟するということが最終的に到達点になるのではないかと考えて話を進めてみることにしましょう。

私は小さな手作り靴工房を主宰していて、その中で自分と同じように靴を作って生きていこうと決意した面々に「WORKS(ワークス)」という専門課程で手作り靴を教えている。それももう丸13年も続けていて、今年の春からまた14期目が始まろうとしている。ある程度長いこと人に教えるということをしてきたので、私のようなものでも教育に関してこのような個人的主観を述べても許してもらえるのではないだろうかと思っている。

 

大見得を切って言うことではないが、ワークスでは何事においても「教えない」ということをモットーにしている。生徒がミシンがけをしている時に、おっとあれは失敗しそうだなと見ていて気づいたとしても、実際に失敗するか、途中で何かおかしいのではと生徒自ら手を挙げるまでは何も言わずに放っておくことにしている。そして案の定、失敗してミシン目がガタガタしたり針が折れてしまったりするのであるが、先にこういうリスクがあるからその時はこんな風にしなさいというようには教えたりしない。そんなことをしていたら、生徒たちに今後降りかかるであろう幾多のリスクを全て洗い出して逐一その対処法をレクチャーすることになるし、そうなったら一人前になるまでに何十年かかるか、もしくは一生その生徒の傍について教授しなければならなくなるだろうことは皆さんにも想像に難しくないと思う。ではどうしたら失敗するだろうことを事前にリスクヘッジできるのか。という問いが勘のいいみなさんの頭には既に浮かんでいることでしょうが、端的にいうとそれは教えてもらうことでは獲得できないということなのです。

それを言ったらあなたは靴の学校で何を教えているのかと疑問に思う方がおられるのは当然です。当ワークスで何を教えているのかと問われれば、「教えてもらわないことを教えている」と答えます。つまり今までの経験や身体で養った感覚をもとにして、教えてもらわなくてもそこにあるだろう危険を察知したり、見たことや経験したことがない事象にも対処できるようになることと言ったら分かりやすいでしょうか。

 

本屋さんのビジネス書棚で、成功者が教える「それをやればあなたも社長になれる」的な経営本を見たことがあるでしょう。カリスマ経営者がその人の成功体験を語っている類の本だと認識しているが(実は読んだことがないので誤認していたらごめんなさい)、私はその本を読んんだ人が本当にカリスマ社長の様になれるかどうかには懐疑的です。中にはそういう本に書いてあることを実践して社長になったという人はいることはいると思いますが、その本の著者と同じかそれ以上の地位や名声を獲得した人は聞いたことがないでしょう。なぜって、そのカリスマ社長は本人の先見の明や今まで誰もなし得たことがないイノベーティブさにおいて特筆していたが故に本に残るような成功者になったのであって、もう既に本になっているような既知の情報や使い込まれたスキルには、新しいものを想像する革新的な知見はもう含まれていないと考えられるからです。前述した失敗するリスクも成功するロジックも同じことです。この先に何が起きて、どのようなことをすれば適切なのかはそのものズバリを教えてもらうことは不可能なのです。だから、教えてもらわないでも分かるようになる人を養成しているのです。

 

教育の本質は教えて分からせるのではなく、教えなくても分かる人を育てることだと思っています。教えてもらうコトそのもの自体には、本質的に未来に生きていく上での有用な示唆は含まれていないことに等しいということでしょうか。つまり、本当に大事なことは教えてもらうことでは獲得できないということを学ぶことが重要だと考えるのです。そして、教えてもらってないことでも自分で考えて、適切な解を導き出せる人のことを、教育のある人成熟した人というのではないでしょうか。

 

ですから、ワークスでは手作り靴の基礎を1年間学んだら、もう後何年修業して研鑽を積もうが、すぐに独立開業しようがみなさんの自由です。そして、工房での経験と身体感覚、独自の想像力を駆使して、これからやってくるだろう荒波を乗り越えていってください。そこからは僕もみなさんも、修行年数や教え子という立場を超えて同じ土俵に立っていることを忘れないでくださいと伝えています。だって、何十年と靴作りを経験した達人も1年しか靴作りを教わっていない人も、この一寸先の未来ですら何が起こるかは誰にも分からないのですから。

 

| works | 16:30 |
身体で感じることが大事なこと

 こんにちは!久しぶりの投稿で失礼します。

ある意味この書き出しも定型化してしまっていて少々心苦しいのですが、このブログを見て頂いている数少ないファンの方(いればの話ですが)へ細々と更新している次第です。

 今回は靴づくりと身体感についてお話ししようと思います。そう言うと靴を履くところの身体的反応や身体運用に関しての話と想像されるかと思いますが、ちょっと指向が違いますので興味がある方は読み進んでいただければ嬉しいです。

 

 さて、以前このブログで「妄想力」というお話をしました。その中で、手づくり靴の職人でも何でも、自分で実現したい夢や目標がある場合は本人の思考の中だけで精錬しているだけではダメで、それを言葉にして身体の外へ出すことが、自分を希望の場所へ連れて行ってもらえるパスポートになるのだということ。そしてそれは、一旦口走ったら周囲に対して引っ込みがつかなくなるからね、というような単純な思考ではなくて、本人の思考回路のレベルを一段階引き上げるようなことに近いのだろうと書きました。

 それを書いた当時は、どういう理路理屈でそのようなことを言っているのか論理的に証明するのは難しいが、自分自身が靴の世界で独立独歩を志向した20年の歩みの中で、身体感覚として感じ、実践してきた経験から出た言葉でした。

 

 先日ある本を読んでいてその理路理屈の一片が見つかったかもしれないという出会いがありました。それは医師であり合気道家でもある佐藤友亮氏の『身体知性』という著書の中でこう書かれています。

「心は身体によって作られている」

 西洋医学的には人の意思というものは単に脳の所業のように考えられていると認識していましたが、意思決定や判断には身体的な入力による経験、いわゆる情動とか感情といわれるものが大きく関わっていて、特にそれらは「正解」が分かっていない問いに対して「正しい判断」をするのに真価を発揮するのだと。

  

 就職や結婚、新しい仕事で独立するなどの「どうしたらいいか分からないとき」に「どうするかが分かること」は死活的状況においても生き抜く力があるのと等しいことを示しています。

 夢や目標を言葉にするということは、単に言語化する能力が備わっているからできるのではなく、自分を外部から俯瞰して可視化認知する能力、「メタ認知」があってはじめて今の自分の状態を言葉にして表現することができるようになるのです。外部から誰かに(自分に)見られていることを想定して自分自身の身体入力にいつも意識を巡らせていると、ここぞというときに、ここぞという場所で、この人に、対して有用な正しい選択ができるようになるということです。

 

 自分の身体的な感覚であった「夢や希望を言葉にして身体の外に出す」という概念に「メタ認知」ということばを与えてもらったことで、今この文言をみなさんに伝える判断に至った訳で、さてそれが正解か否かの答えは、これからのワークス生や手づくり靴を志向する次世代に委ねようと思います。

 

| works | 08:59 |
はじめの一歩

 先週末にワークス(靴の専修コース)の第12期生が修了を迎えました。

修了を迎えたといっても、一般的にそのような学校で行われるような卒業展や卒業式のようなものはなく、最終日に1年間ご苦労様という意味で軽食を用意して、一緒にランチをしながら毎年お決まりである(以前のワークス生はみなさんご存知)手づくりの記念品をお渡しすることをしています。そこでその時に思っている事を修了生にお話しするのですが、事前に考えている訳でもなく、その場で生徒達に贈る言葉として湧き出してきたことをお話しするので、ここにその時の話が支離滅裂だっただろうことを踏まえて加筆、校正して記録しておきたいと思います。

 

 さて、みなさんはワークスで1年間を過ごされて来て、入学した当初は当然靴づくりなど経験したこともなく、果たして自分に靴を作ることができるのだろうかと思われていたことでしょう。そして1年経った今、みなさんは立派に靴が作れる様になっている。課題であった基本構造の靴を数種類ではあるにせよ、作れなかったものを作れる様になったということは、単純に凄いと言って良いのではないでしょうか。

 

 話は私事なのですが、先日娘の卒園式に出席することが叶いまして、その時のことを少しお話しさせていただこうと思います。娘の通っていた幼稚園は、何事も諦めずに「できるまでやる」をモットーにされていまして、またそれと同時に何よりも園児それぞれの「できる」は当然違って良いという、園児の性格や特性、いわゆるパーソナリティーを尊重する理念を幹にして教育をされています。そこでの卒園式は一般に見られるような、卒園証書を渡して、みんなで歌を唄って、集合写真を撮るようなそれではなく、園児が年長期に練習してきた側転や懸垂逆上がり、跳び箱などを披露する場としてあるのです。園児はそれぞれ体格や特性の差がありますから、みんな同じく保護者が驚愕するような高さを跳べることが求められているのではありません。自分自身が設定した目標の高さの跳び箱や鉄棒で、その高さがクリアできたらまた一段上へと目標を一つ一つ諦めずに踏破してきた結果を、卒園時に保護者のみなさんへ披露するのです。だから、ハンディキャップのある園児は逆上がりではなく前回りだったりするのですが、それがその子が1年間努力して諦めなかった結果だから、その子だけ違う事をしていてどうかなどと思う保護者は誰一人としていないのです。入園した当初は何もできなかったのに、竹馬や逆上がり、高板登り、側転など、自分の目標に対峙して目の前の小さなことを一つずつ、一歩一歩あゆみを止めなかったからこそ目標にたどり着けたのだと思います。その点で言えば、幼稚園児も大人(実際幼稚園児を見て身を正す人もいるでしょう)も関係ないのだ、ということが強く心に響いた式でもありました。

 

 みなさんは、これから自分の工房を開いて靴で独立を果たしたり、他の仕事をしながらも靴づくりを続けていったり、自分やご家族の靴を作ることだけでも生活を豊かにすることが可能になるでしょう。靴にどのような形で関わっていかれるとしても、目の前の小さな一歩を踏み出さなければ何も始まらないのです。また言い換えるならば、どんな偉業や成功も或る日突然そうなったのではなく、必ず「はじめの一歩」があったということなのです。以前からワークスの卒業生等によく言っていることがあります。靴の仕事で独立したいのなら、職人さんの元で何年も修行して靴づくりの技術を学んだ人も、学校で1年修学して何とか基礎だけ習得した人も、靴づくりで独立して社会に出るということに関してはスタートラインは一緒だよ。ならば経験は1年そこそこでも、先に一歩踏みだした方が早く自分の目標に辿り着けると思わない?

 

 ワークスの入学説明会の冊子には、靴づくりは自分自身の生き方の表現であると書いています。手づくり靴は自分の手の内のことなので、自分が作りたい靴、作ってあげたい人、作っていきたい環境、そして望む社会を靴を使って表現すればいいのだと。だからといって、手づくり靴は一人だけで何でもできると謳っているのではありません。それでは独り善がりでしかありません。実は手づくり靴が成り立つためには、逆に社会でそのことが必要とされ、人々に求められていなければならないのも事実なのです。自分自身の存在は他者に生かされているという思いを持つことが、独立独歩で靴の道を歩んでいこうという心持ちとは背中合わせで、逆も真なりと言えるのでしょう。

 同じような意味のことを、京都市立芸術大学学長の鷲田清一氏が平成29年度卒業式式辞で明快に述べられおられます。私なりに解釈したところを、搔い摘んでいて恐縮ですが紹介させていただきます。

 

 「わたし」というのは、銘々がそう思っているほど確固としたものではありません。「わたし」の表現とは、じつは「わたし」の存在が負っているものすべての表現でもあります。その意味でいかにプライベートに見える表現も、同時に「時代」の表現なのです。そう考えると、「わたし」は、じつは時代がみずからを表現するときの<器>のようなものだということになります。そういう<器>として「わたし」に何ができるのか。みなさんにはそういう視点をいつも持ってほしいと思います。

 

 芸術についていえば、みなさんは内にある何を「表現」というかたちで外へ押し出すかをずっと考えてこられたと思います。けれども<器>という考え方は、これとは違います。<器>は何か別のものに充たされるのを待つからこそ<器>なのです。

 

 今日、みなさんの旅立ちへの餞の言葉としては、みなさんにはどうか芸術を人生の軸として生きることは、独創的な表現の<主体>になることではなくて、社会の<器>になることだということを心に留めておいて欲しいと思っています。

 

 

 器について言えば、民藝運動を率いた柳宗悦は、日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」があると説きました。靴もいってみれば足を受け止める器のようなものです。そして歩くことを厭わず、健やかな生活を送ることに寄り添うような靴が「美しい」靴だと言えるのではないでしょうか。

 みなさんも、自分が目指す美しい靴、良い靴とは何かを探求しながら、いままで支えてくれた人達や社会の中で何かを充たしてあげられるような、質素でも美しい器になれるよう、目前の一歩を踏みだしてください。

 

| works | 12:16 |
WORKS秋期開始

今週からワークス秋期生がスタートしています。

昨日のオリエンテーションを経て、今日は足の採寸から木型セオリーの講義まで盛りだくさんでした。

 

初日に感想を聞いてみたところ、この工房に通うと決断した後に生徒たちの周囲からは、どうなるものか先が見えないという不安の声が少なからずあったそうです。本人たちからも、多少そのように思っているところがあるのかなと感じました。

 

でも良く考えてみてください。行く先や、そこで何者になるのかを既に皆が承知であることに、わざわざ仕事を辞めたり周囲の反対を押し切ってまでやるだけの魅力があるでしょうか。未開の地に挑んで、自分が歩んできた道とその先で到達できる特別な場所こそが、自分にとって一番価値があることではないのかな。

万人が認めてくれなくても、自分が歩んだ道と到達した場所が正しかったと自分自身が納得できればそれでいいんだと思います。未来のその瞬間のために、自分の精一杯を賭けて今を過ごしてもらいたいと、強く思います。

 

秋から2名が加わり、新しい刺激とともに気持ちを新たにして、僕も11期の生徒と一緒に駆け抜けます!

| works | 18:59 |
WORKSが変わります。
WORKS(靴の専修科)は、今年度・第11期から二期制になりました。
定員は春入学3名、秋入学3名で総員は変わりませんが、入学時期をずらすことで一人ひとりの生徒と向き合える時間と手間が増えることが、今回の変更に至る大きな理由です。以前から考えていたこですが、幸いというか春入学の生徒が少なかったことも、二期制に踏み切れる良いタイミングだったのだろうと思っています。
当の生徒達も、先輩が取り組んでいる半年先の課題を傍らで見ることで、次の作業や課題全体へのイメージがより掴みやすくなることでしょう。

さて、靴とはなんぞや!

自分にとって良い靴とはどんなものか、どういう靴を作ってどんな人に手渡したいのか。
そして、将来どんな社会を築いていきたいのか。
今までの自分と向き合って靴との関わりを探求していきます。
靴の本意とは何かと考えることは、
自分自身の「生きかたち」を見い出す手がかりにきっとなるはずです。

興味のある方は是非靴工房を見学に来て、目と耳と肌で工房の空気を感じてください。
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