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今、この時だからこそ

 今週末、東京とその近県では外出自粛要請が出ています。埼玉県も右に倣え、御多分に洩れず外出制限が出ている訳ですが、まさにその週末はじめの土曜日にこの短文を書いています。それは、いつもの土曜日と変わらずに今日も靴工房は営業していて、靴工房に通ってくる生徒さんを受け入れているからなのです。日本がワンチームになってコロナに立ち向かうという時に、不謹慎だと憤慨される方もおられるかと思って、僕が工房を開けている経緯や考えを、今この時だからこそ伝えておきたいと思っています。

 

 そもそも、不要不急の外出は自粛して欲しいと言うけれど、諸外国のように2週間家に留まっているというようなものではないらしい。それではその不要不急の要件って何?と思ったときに、昨日のTVニュースで大学教授でもあるコメンテーターが言ってたのは、それは命を繋ぐ行為以外のことであると。生きることに直結している事柄はそれに当たらないという。例えて分かりやすく言うと、食料品の買い出しや日々の通院、健康を維持するための運動などは自粛すべき外出には当たらないということらしい。では、靴工房で靴を作ることはどうなるのでしょう?さすがに靴が作れないからといって命の危機を感じることは稀なので、そういう定義に照らすと靴作りはズバリ不要不急のことに当たるのでしょう。

 

 ではなぜ、今回の外出自粛に至るような理路や条件等を認識していながら、その制限の真っ只中で工房を開いてるいるのか?と疑問に思うのは、目端の利いた大人なら当然の思考だろうと思います。なぜなのかを端的にいうなら、それは僕にとって靴づくり(靴工房)が生きることに他ならないからです。

僕は、靴工房で生徒さんに靴作りを手ほどきすること、靴や足で困っている人の靴を作ってあげること、そういうことを自分もやりたいという人に靴作りを手渡すことを生業にしています。そのお陰で家賃を払えたり、日々の食事ができたり、子供を学校に通わせたりできています。他のお店を経営している人やフリーランスの人はわかると思いますが、そのこと自体が経済的な支えであることは当然ながら、さらには精神的な面に於いてもそのこと自体が「自分が生きる」ことに他ならないのだと。

 

 今春も4月から第15期WORKSが入学してきますが、新入生には必ず伝える言葉があります。「手づくり靴は仕事ではなく、私事=作り手の生き方です。どんな靴を作りたいのか、どういう人に履いて欲しいのか、どんな環境で作りたいか、そしてその靴でどんな社会を築きたいのか。手で靴を作るということは、自分自身を作る(見つめる)ことに他ならないのです。」

そして何より、靴は生活道具です。自宅でお母さんが日々の食事を料理してくれるように、自分で履く靴も自身の手で作れるならば、自分の足(好み)にピタリと合うものができます。そうなることがどんなに素晴らしいことか、靴や足で悩んだ経験がある人は言わずもがなでしょう。

そして僕が(ノグチ靴工房)が目指すところが正に、靴づくりは生活技、普段技だということです。つまりそれは誰でもが靴を作れるようになるコトです。靴が必要だなと思ったときに、お店で買おうか、それとも自分で作ろうか、自然にそういう選択肢がみなさんの頭に浮かぶ。そうなることが僕の考える手づくり靴の理想なのです。学生当時、靴の師が「おにぎりが握れるならば誰でも靴は作れる」と言っていたのは、それを言い得た言葉だったなと今になって思います。

 

 皆さんとその暮らしに寄り添うような靴作りを目指している者にとって、今回の外出自粛で生きることに直結しないからという理由では、靴工房を自ら閉鎖する気持ちにはなれませんでした。コロナは脅威ですし、大事な生徒さんにも感染はさせたくないです。最大限に自分にできる工房の除菌や時間ごとの換気、自分の体調管理などをして、極力科学的なエビデンスに基づいた情報収集、行動に努めています。何より履く人の身体や健康を優先に靴を作っているものとして、いざという時は誰よりも迅速に、工房を一時閉鎖することを厭わない、靴屋としての矜持も持ち合わせていることをお伝えしておきます。

 最後に蛇足ですが、政権中枢にいるどんな政治家よりも自営業者のみなさんの方が、真摯に「生きること」に向き合っていることだけは伝わって欲しいなと思っています。

 

| - | 17:53 |
失敗のススメ

JUGEMテーマ:学問・学校

今年でこの仕事を始めて20年目になりました。WORKSという靴づくり専門課程を設けてからは、今期で15期を数えることになります。この節目に、僕がWORKSで靴づくりを教える意義のようなものをもう一度考えています。

教育って「教わらないことを教えること」だと、以前この場で書いたことがあります。学校で教わったコトそれ自体には、それほど重要な示唆は含まれていないと言いました。学校を出た後に社会へ出て、そこで学んだことがそのままの状況で再現されて解決に至るというようなケースはまずないと思われるからです。未知の世界(未来)をどう生き抜いていくのか、正しい解答を知らない時に、正解を導き出せるような経験や方法を学ぶことが必須でしょうという考えから来た言葉です。

そういう思いを抱いてWORKSという手作り靴専門課程を設けて、日々生徒たちに接している訳なのですが、「教わらないことを教える」という方針はどのような教え方かとよく聞かれます。端的に説明すると、聞かれてもすぐには回答せずに考えてみなさいと教える。生徒が実際やってはみたが上手くできずに悩んだ末に質問してくるか、失敗して困って途方に暮れていると何かヒントを教えるという具合でしょうか。つまり、「失敗するための教育」といっては言い過ぎになるでしょうか。

昨今は、高い授業料を払っているのに失敗させるとは何事だと怒りだす親御さんもいるのかなと想像しますが、ちなみに今までそのような経験は幸いにしてありませんでしたし、もしそのように自分の子を管理している親がいるとしたら、残念ながら子どもの生きる力を殺いでしまっているのに等しいと言わざるを得ないでしょう。

 

アメリカの『Psychological Science』に掲載された論文によると、人の脳は失敗の経験とそれを能動的に解決しようとする意欲によって成長すると発表されています。元になったスタンフォード大学の研究調査では、ニューヨーク市の5年生400人を対象にあるパズル問題を解かせて、半分のグループには頭が良いと「知性」を褒める対応をし、もう半分のグループには一生懸命よく頑張ったと「努力」を褒める対応をして、その後の各グループの成績を追跡調査したそうです。

研究者の二つのグループ間にそれほど大きな違いは生じないだろうという予測を大きく覆して、5年生たちには劇的な影響力があったと報告されています。

結果的には、「知性」を褒められたグループは成績が伸びないか落ち込み、「努力」を褒められた方のグループは劇的に成績が伸びたということです。知性をほめられた子どもは、自分を賢く「見せる」ことに留意して失敗を恐れ、難しい問題に挑戦したり、間違いをおかすリスクをとれなくなるのだと説明しています。その逆に「努力」を褒められたこどもは、失敗を理解し、失敗から学び、よりよい方法を編み出したいと思ったのでしょう。彼らは、たとえ最初は失敗しても挑戦することを望んだので、その経験により後により高い成績を得たのだと結論づけています。

 

最近の嬉しいニュースで、韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』がアジア映画で初めてアカデミー賞の作品賞、監督賞を含む4冠という偉業を達成しました。その受賞者インタヴューで監督のポン・ジュノ氏が紹介したのは、名監督マーティン・スコセッシ氏の「The most personal is The most creative」(より個人的なものが一番創造的である)という言葉でした。映画を勉強していた学生時代に深く心に刻んだ言葉だそうです。

 

よく「自分探し」という言葉を使う人がいますが、僕はあまり好きな表現ではありません。

今の自分は本来あるべき姿(身分や年収や才能?)ではなく、自分以外の何かに不当に虐げられて現在の状態で我慢させられていると言わんばかりと考えてしまうのは穿った見方でしょうか。

前述した「The most personal is The most creative」は受け手によって様々な解釈が可能だとは思いますが、僕はこう考えます。「探さなくても、唯一無二の自分という存在に気づけば良い」

個々の資質を存分に発揮することは、自分自身を表現する最も有効かつ最大に創造的なのだということです。

だから、そういう「自分には他の居場所があるはず」だと思っている人には、自分の好きなこと、熱中できることを突き詰めてやりなさいと言いたい。

 

手で何かを作る、とりわけ人が生きる上で必要とするものを作るということは、自分自身を見つめる(探す)のに大変有効な装置となり得ます。日々食べるために料理を作ること、それもなるべく美味しく作る。生活のための道具を作る。例えば普段使いする器を土から練って作る、素材から吟味して着心地の良い服を仕立てる、足に合わせて木型から靴を作ることもその一つでしょう。

靴に関して言わせてもらえば、どんな靴を作りたいか(どんな靴なら喜んでもらえるか)、どんな場所(環境)で作りたいか、どんな人たちと作りたいか、そしてどんな社会を実現したいのか?そういった靴づくりに付随する全てのコトガラが自分自身を形にしていくのです。そして気がついたら、自分が一本の幹のようになって、どんな状況に遭遇してもどんな人と対峙しても、決して微動だにしない太い芯が中に存在していることに気づくでしょう。敢えて言うなら、それが探していた自分だと思います。

 

失敗することに学びの意義があるとするならば。人は失敗なくして成長しないならば、自分がやりたいことに挑戦することや未知の経験をすることにもう躊躇する理由は見つからないでしょう。

それが自分の生きる力を最大限に引き出す方法で、その環境が自分を確立する最高の学びの場になるだろうからです。

 

最後に蛇足ですが、春期のWORKSでみなさんの失敗への挑戦を待っています!

 

| works | 15:44 |
靴とパンのお仕事

 私ごとで恐縮ですが、この度、実家の敷地内でkuroパンという小さなパン屋を始めることになりました。

ノグチ靴工房&Farmという活動の一環としてのパンなのですが、靴や生活用具、食や農業など、日々の暮らしを自らの手に託して、その中のコトガラや環境を作り育み、生まれ育った宮代町をベースに皆さんと共有するという考えが礎になっています。2015年に宮代町へ移住(戻って来た)時に温めていたものでしたし、正確に言うとそういうことをやるために宮代に戻る計画を、その5年も前から立てていたということになります。

 

 とは言っても僕がパンを焼くわけではなく、パン屋の仕事は専ら妻が担うことになります。ちなみに、僕は靴を作ること(作ることを教ええることも)を生業としていますが、実は靴を作ること、パンを作ることに特別な資格は必要ありません。誰でも靴職人、パン職人を始めることができます。先ほど、誰でも靴やパンを始めることはできると書きましたが、靴職人やパン職人に成れるとは言いませんでした。昨今は第何次かのパンブームだと言われているそうですが、そういう時流に乗ってパンや靴を始めるという人もいるでしょう。それには特に否定的でもありません。靴屋になりたければ靴を作って(もしくは作らせて)売ればいいのです。パン屋も同じ論理でパン屋にはなれると思います。けれども、それを長く続けて靴職人やパン職人に成れるかどうか、皆さんに求められ愛される靴やパンが作れるかどうかは別だということです。ノグチ靴工房やkuroパンは単に靴やパンを売る人にはなりたくありません。靴やパンに乗せたい思いがあるから靴やパンを手で作っているのです。

 

 暮らしの中で必要なものを自身の「手」で作ることで、自分が生きること、周りの環境、社会の有り様について考えたりすることが大事だと思います。それをきっかけに地域で新しい交流が生まれたりするのも願っていることです。また人が生きるためには「食」が切り離せないことは言わずもがなですが、食物の育まれる過程や昔ながらの調理方法を継承して、農のある暮らしを持続してゆくことも重要なテーマだと考えています。

つまり、そんなことを思いながら靴やパンを手づくりしているのです。モノを作ることを生業にしていますが、手で作ると「仕事」というのは「私事」というふうに書き換えられるのだろうと思っています。自分たちは作った「モノ」よりそれに一緒に乗せた伝えたい「コト」を届けるのが本当のシゴトだと思っているのです。

| 宮代の家〜農のある暮らし〜 | 15:45 |
教育ってなんだ

 先月に引き続いての投稿なんて、僕にしては稀有なことだと自分自身でも驚いてしまいますが、教育(何かを教えること、教わること)について所見を書きました。

 

教育って何だ。

字のごとく教え育てると書くように、教育することの目的は教育することによって人を育てる、教育を受けた人たちが成熟するということが最終的に到達点になるのではないかと考えて話を進めてみることにしましょう。

私は小さな手作り靴工房を主宰していて、その中で自分と同じように靴を作って生きていこうと決意した面々に「WORKS(ワークス)」という専門課程で手作り靴を教えている。それももう丸13年も続けていて、今年の春からまた14期目が始まろうとしている。ある程度長いこと人に教えるということをしてきたので、私のようなものでも教育に関してこのような個人的主観を述べても許してもらえるのではないだろうかと思っている。

 

大見得を切って言うことではないが、ワークスでは何事においても「教えない」ということをモットーにしている。生徒がミシンがけをしている時に、おっとあれは失敗しそうだなと見ていて気づいたとしても、実際に失敗するか、途中で何かおかしいのではと生徒自ら手を挙げるまでは何も言わずに放っておくことにしている。そして案の定、失敗してミシン目がガタガタしたり針が折れてしまったりするのであるが、先にこういうリスクがあるからその時はこんな風にしなさいというようには教えたりしない。そんなことをしていたら、生徒たちに今後降りかかるであろう幾多のリスクを全て洗い出して逐一その対処法をレクチャーすることになるし、そうなったら一人前になるまでに何十年かかるか、もしくは一生その生徒の傍について教授しなければならなくなるだろうことは皆さんにも想像に難しくないと思う。ではどうしたら失敗するだろうことを事前にリスクヘッジできるのか。という問いが勘のいいみなさんの頭には既に浮かんでいることでしょうが、端的にいうとそれは教えてもらうことでは獲得できないということなのです。

それを言ったらあなたは靴の学校で何を教えているのかと疑問に思う方がおられるのは当然です。当ワークスで何を教えているのかと問われれば、「教えてもらわないことを教えている」と答えます。つまり今までの経験や身体で養った感覚をもとにして、教えてもらわなくてもそこにあるだろう危険を察知したり、見たことや経験したことがない事象にも対処できるようになることと言ったら分かりやすいでしょうか。

 

本屋さんのビジネス書棚で、成功者が教える「それをやればあなたも社長になれる」的な経営本を見たことがあるでしょう。カリスマ経営者がその人の成功体験を語っている類の本だと認識しているが(実は読んだことがないので誤認していたらごめんなさい)、私はその本を読んんだ人が本当にカリスマ社長の様になれるかどうかには懐疑的です。中にはそういう本に書いてあることを実践して社長になったという人はいることはいると思いますが、その本の著者と同じかそれ以上の地位や名声を獲得した人は聞いたことがないでしょう。なぜって、そのカリスマ社長は本人の先見の明や今まで誰もなし得たことがないイノベーティブさにおいて特筆していたが故に本に残るような成功者になったのであって、もう既に本になっているような既知の情報や使い込まれたスキルには、新しいものを想像する革新的な知見はもう含まれていないと考えられるからです。前述した失敗するリスクも成功するロジックも同じことです。この先に何が起きて、どのようなことをすれば適切なのかはそのものズバリを教えてもらうことは不可能なのです。だから、教えてもらわないでも分かるようになる人を養成しているのです。

 

教育の本質は教えて分からせるのではなく、教えなくても分かる人を育てることだと思っています。教えてもらうコトそのもの自体には、本質的に未来に生きていく上での有用な示唆は含まれていないことに等しいということでしょうか。つまり、本当に大事なことは教えてもらうことでは獲得できないということを学ぶことが重要だと考えるのです。そして、教えてもらってないことでも自分で考えて、適切な解を導き出せる人のことを、教育のある人成熟した人というのではないでしょうか。

 

ですから、ワークスでは手作り靴の基礎を1年間学んだら、もう後何年修業して研鑽を積もうが、すぐに独立開業しようがみなさんの自由です。そして、工房での経験と身体感覚、独自の想像力を駆使して、これからやってくるだろう荒波を乗り越えていってください。そこからは僕もみなさんも、修行年数や教え子という立場を超えて同じ土俵に立っていることを忘れないでくださいと伝えています。だって、何十年と靴作りを経験した達人も1年しか靴作りを教わっていない人も、この一寸先の未来ですら何が起こるかは誰にも分からないのですから。

 

| works | 16:30 |
手に託して生きる

 神奈川県の二宮という海沿いの町で、友人がパン屋を開業したという話を聞いてから4、5年は経ったでしょうか。その間に、靴工房を開いたことがきっかけで14年暮らした茅ヶ崎を離れ、生まれ育った埼玉に工房を移転しました。再び新しい環境へ飛び込んだことで靴工房もまた一からのスタートだと覚悟しながら駆け抜けた日々は、あっという間に3年の年月を数えました。そして先日、いつも気になっていながらもまだ行けずにいた(物理的にも心情的にも)、その友人が営むパン屋を遂に訪ねることができました。

 

 彼とは茅ヶ崎時代に知り合いました。ご夫婦が自宅でよく開いていたホームパーティーに呼んでもらったのがきっかけでした。交遊関係の広い人で、そのパーティーにはカメラマン、デザイナーやアーティスト、手づくり家具職人や菓子職人、時にはデンマークから来ていた彼の友人がいたりと、多種多様でインターナショナル。彼の魅力的な人柄とセンスが醸し出す空間と時間に僕を含めてその場の皆が刺激を受けていたように思います。その当時北欧家具の会社に勤めていてた彼が、どんな紆余曲折があって突然パン職人としてみんなの前に姿を現すことになったのか、正直なところそれを知る由も必要もないのですが、久しぶりに会った彼は(曰く8年ぶりだそう)、以前と全く変わらない屈託ない懐かしい笑顔で迎えてくれました。

 

 以前からパンと靴は良く似ていると思っていました。僕の靴の師は、自分の人生を手に託して生きると決めた時に、これから靴を作ろうかパンを作ろうかのどちらかを考えたという話を聞いたことがありました。パン職人は粉を練ってパンを焼き、片や靴職人は革から切り出して靴を作りますが、そのどちらも材料の状態からは全く違う形(立体物)に成形される。そうやって作られたものが人の暮らしに寄り添って生活を支えるものになるというところが似ているなと思っていたのです。そして、そのどちらも食べる人や履く人のことを思って作られたものはある種の美しさを備えています。美味しく食べてもらえるように、快適に歩いてもらえるようにと思いを込めて作られたものに宿る佇まいのようなものです。それと同じようなことを民芸運動の柳宗悦は「用の美」と言いました。華美に装飾され、これは国宝級なので使ってくれるなといった器より、何気ない普段使いの器にこそ「器」としての本来の美しさがあるということと似た感性ではないでしょうか。

 

 彼が作るパンにもその美しさがあります。棚に並べられたパンは自ら起こした天然酵母種から焼き上げられてふっくらと丸く、少し強めに焼かれた表面は噛めばパリッと音がするだろうと容易に想像できます。芳ばしい香りが今にもしてきそうな何とも美味しそうで美しい佇まいです。それは裏返せば、厳選した材料を使い美味しく食べてもらいたいと思いを込めて作ったものだからこそ出せる美しさなのだと思います。靴も同じで、奇をてらうデザインの靴があってその時は目新しいということで人気があったとしても、10年後、50年後にその靴のデザインが残っているかといえば、その可能性は時間が経つにつれて難しくなるでしょう。現在のスタンダードと言われている靴で皆さんが格好いいとか可愛いといっている意匠(デザイン)は例外なく「機能的デザイン」、つまり履く人に寄り添う形ゆえに時間を越えられたのだと言えるのです。

 

 履く人を特定ししないで作る靴は点の靴です。その時代に合っていてその時々に売れればいいという靴のことです。逆に履く人を想って手で作る靴は線の靴です。その人の暮らしに寄り添い、長く人生を共に歩いてゆく靴のことです。だから、これから靴やパンをやってみたいと思っている人で、沢山作ってたくさん売りたい人は手で作ってはだめなんです。逆に手に届く範囲の人の幸せを願いながら、地域に根をおろして何かを作ることを生業にしたいのなら、手で作ることほど自由で自在なことはありません。それが手に託した生き方ということだと思っています。

 

 最後に、彼と再会を願いながら握手をして別れましたが、握った手は厚みがあって温かく、しっかりとした職人の手をしていたことを書き添えておきます。

| 雑記 | 09:36 |
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