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身体で感じることが大事なこと

 こんにちは!久しぶりの投稿で失礼します。

ある意味この書き出しも定型化してしまっていて少々心苦しいのですが、このブログを見て頂いている数少ないファンの方(いればの話ですが)へ細々と更新している次第です。

 今回は靴づくりと身体感についてお話ししようと思います。そう言うと靴を履くところの身体的反応や身体運用に関しての話と想像されるかと思いますが、ちょっと指向が違いますので興味がある方は読み進んでいただければ嬉しいです。

 

 さて、以前このブログで「妄想力」というお話をしました。その中で、手づくり靴の職人でも何でも、自分で実現したい夢や目標がある場合は本人の思考の中だけで精錬しているだけではダメで、それを言葉にして身体の外へ出すことが、自分を希望の場所へ連れて行ってもらえるパスポートになるのだということ。そしてそれは、一旦口走ったら周囲に対して引っ込みがつかなくなるからね、というような単純な思考ではなくて、本人の思考回路のレベルを一段階引き上げるようなことに近いのだろうと書きました。

 それを書いた当時は、どういう理路理屈でそのようなことを言っているのか論理的に証明するのは難しいが、自分自身が靴の世界で独立独歩を志向した20年の歩みの中で、身体感覚として感じ、実践してきた経験から出た言葉でした。

 

 先日ある本を読んでいてその理路理屈の一片が見つかったかもしれないという出会いがありました。それは医師であり合気道家でもある佐藤友亮氏の『身体知性』という著書の中でこう書かれています。

「心は身体によって作られている」

 西洋医学的には人の意思というものは単に脳の所業のように考えられていると認識していましたが、意思決定や判断には身体的な入力による経験、いわゆる情動とか感情といわれるものが大きく関わっていて、特にそれらは「正解」が分かっていない問いに対して「正しい判断」をするのに真価を発揮するのだと。

  

 就職や結婚、新しい仕事で独立するなどの「どうしたらいいか分からないとき」に「どうするかが分かること」は死活的状況においても生き抜く力があるのと等しいことを示しています。

 夢や目標を言葉にするということは、単に言語化する能力が備わっているからできるのではなく、自分を外部から俯瞰して可視化認知する能力、「メタ認知」があってはじめて今の自分の状態を言葉にして表現することができるようになるのです。外部から誰かに(自分に)見られていることを想定して自分自身の身体入力にいつも意識を巡らせていると、ここぞというときに、ここぞという場所で、この人に、対して有用な正しい選択ができるようになるということです。

 

 自分の身体的な感覚であった「夢や希望を言葉にして身体の外に出す」という概念に「メタ認知」ということばを与えてもらったことで、今この文言をみなさんに伝える判断に至った訳で、さてそれが正解か否かの答えは、これからのワークス生や手づくり靴を志向する次世代に委ねようと思います。

 

| works | 08:59 |
はじめの一歩

 先週末にワークス(靴の専修コース)の第12期生が修了を迎えました。

修了を迎えたといっても、一般的にそのような学校で行われるような卒業展や卒業式のようなものはなく、最終日に1年間ご苦労様という意味で軽食を用意して、一緒にランチをしながら毎年お決まりである(以前のワークス生はみなさんご存知)手づくりの記念品をお渡しすることをしています。そこでその時に思っている事を修了生にお話しするのですが、事前に考えている訳でもなく、その場で生徒達に贈る言葉として湧き出してきたことをお話しするので、ここにその時の話が支離滅裂だっただろうことを踏まえて加筆、校正して記録しておきたいと思います。

 

 さて、みなさんはワークスで1年間を過ごされて来て、入学した当初は当然靴づくりなど経験したこともなく、果たして自分に靴を作ることができるのだろうかと思われていたことでしょう。そして1年経った今、みなさんは立派に靴が作れる様になっている。課題であった基本構造の靴を数種類ではあるにせよ、作れなかったものを作れる様になったということは、単純に凄いと言って良いのではないでしょうか。

 

 話は私事なのですが、先日娘の卒園式に出席することが叶いまして、その時のことを少しお話しさせていただこうと思います。娘の通っていた幼稚園は、何事も諦めずに「できるまでやる」をモットーにされていまして、またそれと同時に何よりも園児それぞれの「できる」は当然違って良いという、園児の性格や特性、いわゆるパーソナリティーを尊重する理念を幹にして教育をされています。そこでの卒園式は一般に見られるような、卒園証書を渡して、みんなで歌を唄って、集合写真を撮るようなそれではなく、園児が年長期に練習してきた側転や懸垂逆上がり、跳び箱などを披露する場としてあるのです。園児はそれぞれ体格や特性の差がありますから、みんな同じく保護者が驚愕するような高さを跳べることが求められているのではありません。自分自身が設定した目標の高さの跳び箱や鉄棒で、その高さがクリアできたらまた一段上へと目標を一つ一つ諦めずに踏破してきた結果を、卒園時に保護者のみなさんへ披露するのです。だから、ハンディキャップのある園児は逆上がりではなく前回りだったりするのですが、それがその子が1年間努力して諦めなかった結果だから、その子だけ違う事をしていてどうかなどと思う保護者は誰一人としていないのです。入園した当初は何もできなかったのに、竹馬や逆上がり、高板登り、側転など、自分の目標に対峙して目の前の小さなことを一つずつ、一歩一歩あゆみを止めなかったからこそ目標にたどり着けたのだと思います。その点で言えば、幼稚園児も大人(実際幼稚園児を見て身を正す人もいるでしょう)も関係ないのだ、ということが強く心に響いた式でもありました。

 

 みなさんは、これから自分の工房を開いて靴で独立を果たしたり、他の仕事をしながらも靴づくりを続けていったり、自分やご家族の靴を作ることだけでも生活を豊かにすることが可能になるでしょう。靴にどのような形で関わっていかれるとしても、目の前の小さな一歩を踏み出さなければ何も始まらないのです。また言い換えるならば、どんな偉業や成功も或る日突然そうなったのではなく、必ず「はじめの一歩」があったということなのです。以前からワークスの卒業生等によく言っていることがあります。靴の仕事で独立したいのなら、職人さんの元で何年も修行して靴づくりの技術を学んだ人も、学校で1年修学して何とか基礎だけ習得した人も、靴づくりで独立して社会に出るということに関してはスタートラインは一緒だよ。ならば経験は1年そこそこでも、先に一歩踏みだした方が早く自分の目標に辿り着けると思わない?

 

 ワークスの入学説明会の冊子には、靴づくりは自分自身の生き方の表現であると書いています。手づくり靴は自分の手の内のことなので、自分が作りたい靴、作ってあげたい人、作っていきたい環境、そして望む社会を靴を使って表現すればいいのだと。だからといって、手づくり靴は一人だけで何でもできると謳っているのではありません。それでは独り善がりでしかありません。実は手づくり靴が成り立つためには、逆に社会でそのことが必要とされ、人々に求められていなければならないのも事実なのです。自分自身の存在は他者に生かされているという思いを持つことが、独立独歩で靴の道を歩んでいこうという心持ちとは背中合わせで、逆も真なりと言えるのでしょう。

 同じような意味のことを、京都市立芸術大学学長の鷲田清一氏が平成29年度卒業式式辞で明快に述べられおられます。私なりに解釈したところを、搔い摘んでいて恐縮ですが紹介させていただきます。

 

 「わたし」というのは、銘々がそう思っているほど確固としたものではありません。「わたし」の表現とは、じつは「わたし」の存在が負っているものすべての表現でもあります。その意味でいかにプライベートに見える表現も、同時に「時代」の表現なのです。そう考えると、「わたし」は、じつは時代がみずからを表現するときの<器>のようなものだということになります。そういう<器>として「わたし」に何ができるのか。みなさんにはそういう視点をいつも持ってほしいと思います。

 

 芸術についていえば、みなさんは内にある何を「表現」というかたちで外へ押し出すかをずっと考えてこられたと思います。けれども<器>という考え方は、これとは違います。<器>は何か別のものに充たされるのを待つからこそ<器>なのです。

 

 今日、みなさんの旅立ちへの餞の言葉としては、みなさんにはどうか芸術を人生の軸として生きることは、独創的な表現の<主体>になることではなくて、社会の<器>になることだということを心に留めておいて欲しいと思っています。

 

 

 器について言えば、民藝運動を率いた柳宗悦は、日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」があると説きました。靴もいってみれば足を受け止める器のようなものです。そして歩くことを厭わず、健やかな生活を送ることに寄り添うような靴が「美しい」靴だと言えるのではないでしょうか。

 みなさんも、自分が目指す美しい靴、良い靴とは何かを探求しながら、いままで支えてくれた人達や社会の中で何かを充たしてあげられるような、質素でも美しい器になれるよう、目前の一歩を踏みだしてください。

 

| works | 12:16 |
妄想力

 ノグチ靴工房が浦和に移転してから、この12月で3年が経とうとしています。そして今年は現在工房として借りている物件の3年契約が切れる年でもあるのです。自分の中では何となく更新はしないんじゃないかなというふうに思っていましたが、かといって実際に店舗物件を探すわけでもなく、あの妄想を抱くまではいつもの工房でそれまで通りの日常を過ごしていました。

 

 7月に入ったある日、木型クラスに在籍している生徒さんが浦和に店舗物件の良い出物があるのという話を教室中にされていました。その方、手先足先に関係するモノのネットショップを経営されていて、いつか浦和で「健康にいつまでも自分の足で歩ける自分でいるため」の実店舗を持ちたいと、その勉強のためにと工房の木型クラスに来られていたのでした。ただ、その出物物件は賃料がちょっと高くてとか、一棟貸しなので二階部分の使い道をどうしようかしらとか云々。

その時はそのまま話を聞いているだけでしたが、翌日になってなぜか気になって、気付いたらこんなメールを送ってしまっていました。送ったメールはこんな感じ。

 

 さて、不躾ですが昨日の実店舗のお話を聞きまして、ちょっと考えましたことを聞いて頂けたらとキーを叩いております。
 もし、店舗の2階などでスーペース的に余裕があり、その活用法にまだ構想の余地があるようでしたら、シェアオフィスならぬシェア工房として間貸しするという可能性はあるでしょうか。
  実は現在の工房はこの12月で3年の契約期間が終了し、新たに更新するか移るかを考えているところでして、もし色々な条件が合う事は前提でしょうが、スペースがシェアできたら面白いだろうなと勝手に妄想した訳なのです。
 茅ケ崎ロビィでも家具屋さんと場所をシェアして、双方向で様々な人と出会い交流し、新しい発見や仕事上でのアドバンテージがありました。
 最近当ワークスの卒業生でも、神奈川の大船にあるスイーツ・ファクトリーという、独立志願のお菓子屋さんへ向けたシェア物件を靴工房として間借りして、お菓子の面々と一緒に革雑貨を販売したり、ファクトリー製おやつ付きの革小物ワークショップを企画したりと、良い相乗効果が生まれているようです。
  この話は単に僕の妄想に過ぎませんので、失礼がありましたらご容赦ください。その妄想の一端だけでもシェア頂けたら嬉しいなと思って、突発的にメールしてしまった次第なのです。
 また、もしそのようなことが万一現実に起こるようでしたら、一番に手を挙げますのでお知らせください。

 

 表題にある妄想力とは謂わば夢をみる力のことです。こんなことが現実に起こったらいいな、あんな職業になってみたいなという夢を描く心のポテンシャルとでもいいましょうか。こういうのは月並みなのかもしれませんが、この時代は妄想することをやめてしまったように思います。夢をみることが許されない空気感が社会を支配していると言うべきでしょうか。その夢が成功するエビデンスがあるの?ところで成功してもそれっていくら稼げるの?というような空気です。周りもそうですが本人に至っても、世の中の現実と付き合わせてみて、そこから逸脱しているものは受け入れないし、受け入れて貰えないだろうと端から諦めてしまっているように感じるのです。でも考えてみてください。誰もが現実的にその場に留まってしまっていたら、この先に新しい発見や発明、人間の進歩というものは何処から生まれて来るのでしょう。妄想や夢を現実に変換するからこそ、この世の中に誰も見た事がない新たな発見や経験を獲得することことが可能になるのではないでしょうか。

ただし、妄想する(夢見る)ことは自分の日常にとっては非日常的なことです。いくら頭の中で夢や希望を思い描いたとしても、現実に戻るといつもの通勤の行き帰りに、ルーチンな仕事をこなして週末は疲れた身体を休めて心を充電する。そしてまたいつもの日常が始まってゆくといった具合にです。何を言いたいかというと日常生活は惰性が強いということです。仕事がキツくても、ストレスを感じていても、総じてそれらに慣れてしまっていることはないでしょうか。逆に夢や妄想を日常に転化することは違和感を伴います。それでもそれらを日常に引き出すことでしか現実は変えられないのです。その手段はというと、思い描いた妄想や夢を言葉にして自分の外に出すことだけです。それを一たび言ってしまったからやらずにはいられないものね、というのとは少し違うと思っています。自分の日常に楔を打つことで、もうすでにこれまでの日常とは違う日常を経験すること、それ自体で思考レベルが一段アップするようなことだと考えています。そうすると自分自身でも解らない何かに駆動され、伴って周りの人や環境も変化していくことが実感として解ってくると思います。

 何故そうなるのか詳細な経緯や理論を述べてみろと言われたら、はっきりと論述することは難しいと言わざるを得ませんが、手づくり靴を仕事にする中で、そういった経験を幾度となくしてきたことなので現に確かだと言う他ないのです。

その証拠に、今回も良い縁に恵まれたと言って間違いないのですが、実際に自分の妄想が現実になったじゃない。ということでご理解いただけるといいなと思っています。

大いに妄想力を働かせて、輝く未来の自分を想像してみませんか。

 

| - | 21:17 |
ものづくりの正義

 仕事での情報発信のためにfacebookをやっています。靴工房のページを作るには個人のアカウントを登録しなければならない仕組みになっているらしく、そのため僕個人の方を見つけて下さった方とは数人レベルでお友達になっています。

 ある日、お友達のどなたかがイイネ!をした投稿が当方のタイムラインにも流れてきました。あるパン屋さんの投稿で、そこはフォロワーが確か数万単位の人気店であったのを記憶しています。自分が普段靴づくりをしながら考えていることと真逆の事(回り回って本当は同じことかもしれませんが)を言われていたのに軽いショックを受け、信じていること(もしくは信じたいと思っていること)が少し揺らいだというお話しです。

 

 そのパン屋さんの投稿はこんなものでした。(以下要約して抜粋:「売れると正義になる」世の中で沢山買われているものが正義になってしまう。売るのがうまくて商品がダメなものだってあるけど、みんなはそう思っていない。売れている=いいものです。だから、ナチュラル志向でオーガニック志向で売りまくる店になれと言ってます。そしたら、オーガニックが正義になる。だから、本気で売らなきゃダメだと。負けるなと。

パン屋さんがそういう価値観に変化する以前は、自分と家族が生活できる程度に稼げて、自分のできる範囲で身の周りの人の幸せを願いながら店を営業できればいいと考えていたようです。その投稿を読んだ時のことを、ある意味自分の価値観が見透かされ否定されているかのような感覚とともにはっきりと覚えています。

まさに今の自分は、パン屋さんが意識を変える前の価値観で約20年靴づくりと向き合ってきたのです。自分が信じる良い靴を目指して、少ないながらもその価値を認めてくれる靴の注文主やクツ教室の生徒さんの幸せを願って、自分の身の丈で出来ることをする(身の丈で出来ないことはしない)のが「手で靴をつくること」の本意だと思っていました。靴を生業にしたいと専門課程(WORKS)に入学してくる生徒らにも、自分の手が届く範囲で靴を手づくりしていれば、自分の家族や身近な人を幸せにするくらいの仕事は成立するのだよ。だから誰でも「靴の作り手になれる」と伝えてきました。

逆に、沢山作って沢山儲けたい人は決して「自分の手で作らない」ことが肝要で、資本を導入して人を雇い、機械に作らせた方がその目的を達成するには効率が良いのです。ただ断っておくと、そのどちらかが正しくて、どちらかが間違っていると言っているのではありません。

 いくら自分が良いと信じるモノを作っても、伝わらない(今の世の中では売れないということ?)のでは意味がないと。それが良いものだとみなさんに分かってもらう為には売れてなんぼ、という意見もあることでしょう。

僕も手づくり靴の心地良さや、身体や環境にやさしい革や接着材を拘って使っていることなど、みなさんに靴を売ることでもっと広く伝えられるのではないかと考えたことはありました。また逆に、売りを優先することや宣伝に時間を費やすことを忌み嫌ったり、時にはそういう作り手を蔑んだりすることもあったと思います。

パンと靴は似ているところが多々あります。パンは食べてもらわないとその価値(素材の良さやおいしさ)は伝わりません。靴も同じで履いて歩いてもらって初めてその真価が分かってもらえます。そして、どちらも手で作っているからには沢山のものは出来ない。そういうことでは、それらの価値をどう伝えていくかが、これからの作り手に課題として求められていることは間違いないのでしょう。

 

 最後に、僕は今でも良いと信じるものを作っていれば、沢山売らなくても伝わることは十分にあると思っています。売れる売れないという現在の資本経済の仕組みに翻弄されまいと、何か考える機会があるたびに抗っていることも事実です。もしそのパン、もしくは靴の良さを伝えたいなら無料で配ってみたら良いのでは、と極論ではありますが考えたりもします。それではお金にならない、生活できないではないかとお叱りを受けるのは承知です。でも差し上げることで喜んでもらえて、そのお礼にと自分の畑で採れた野菜やお米を頂けたとしたら、近所の大工さんが靴を修理してもらった代わりに台所を直してあげようということがあって、それで地域や世界が回るなら面白いじゃないかと考えてしまうのです。

 それぞれの作り手にはそれぞれの価値観があって、どれが正しい正しくないということではないと思っていますが、ものづくりの何が「正義」かということは明確に一つしかないと思っています。理想の靴づくりでお金が稼げなくて、もしどうしてもお金が必要ならアルバイトでも何でもすれば良いと、僕は今現在でも腹を括っています。僕の靴づくりの原点は、家族の靴を作って、その家族が心地良いと喜んでくれる靴が作れればそれで良い、ということなのだから。

| - | 12:44 |
信じる力

新しい年になりましたが、もう2月も半ばを過ぎようとしています。

年に数回しか更新されないブログですが、お目に留まった方はどうぞご覧下さい。

 

長年考えていたことで頭の中でモヤモヤしていたものが少し晴れたというお話しです。

 

 さて、靴を作る上で大事なことは何だと思いますか。特に「手づくり靴」(既製靴を手で作っているのは別です)では靴の履き手との良好な人間関係が築けるか否かが、足に合う靴を作るのに大変重要な要素になると靴を始めた頃から常々思っていましたし、WORKS(手づくり靴専修科)の生徒らにも、靴づくりは「履き手との関係を作ること=人づくり」だと教えてきました。

そういう良好な関係を築けた方とは総合的に靴づくりがうまくいくし、その後も関係は続いていくだろうことは、みなさんにも想像に難しくないと思います。さらに実際に足に対するフィット感や、痛みが出る・出ないにもそれは関わっているように思えていて、ただそれは自分の経験則に従った感覚的(主観的)なもので、もし誰かに証明してみせろと言われたら、15年以上そんな気がしてやってきたのでとしか言えないと思っていました。

 

 先日、足に靴型装具を付けた男性が突然工房にやって来て言いました。いままで40年以上この足の装具と付き合って来て、全国にある殆んどの装具屋を廻ってみたのだが、ただの一度も自分の足に合った靴型装具を作ってもらったことがない。なので作った中では何とか履けるという靴をいつも不満ながらに履いている。とのこと。そして、履いて来た靴の不満な点や、装具屋がいかに怠慢で経済的な合理性しか考えておらず、自分たちのような足の人のことを本当に考えて靴を作ってはいない。という話を2時間近く聞いていただろうか。

そこで思い出したのはある義肢装具士学校の先生の話です。患者と医者の間に信頼関係がないと、装具士がどんなに良い義足を作っても患者は義足に違和感や痛みを覚えることがあるそうなのです。その男性の話もまったくの嘘ではないと思いますが、この先どんな装具屋や靴屋さんが(僕も含めて)作っても、彼が満足いく靴は出来ないだろうとその時感じていたのでした。

 

 ある日、BSのテレビ欄に「腰痛の新常識」という、腰痛持ちには何とも魅力的な題名の番組があるのを発見して見てみたところ、腰痛の8割は原因不明(特定できない)らしく、自分は腰痛持ちだという意識や痛みへの恐怖心を持つこと自体が脳に悪影響して、脳が痛みを緩和する物質を出すことを妨げてしまい、結果的に慢性的な腰痛になったり痛みを長引かせてしまうという内容でした。靴を作りながら経験的感覚として何となくぼんやりと形をなしていたものが、輪郭を与えられて腑に落ちたという感じです。

 

 今までの話を総括すると、手づくり靴において履き手と靴のグッドフィッティングには、履き手と作り手の信頼関係(この人に作ってもらった靴だから大丈夫)が重要だということです。感覚的なものと思っていたことが、医科学的にも証明され始めていることだと分かってきました。信頼関係があればどんな靴を作っても痛くないしフィットすると言ってるのではありません。そこに胡座をかいて適当に靴づくりをしている人は、最終的には信頼されなくなるというパラドックスを含んでいますので、その辺をくれぐれもお間違えなく。

まさに信じる者は救われるのでしょう。

| 雑記 | 15:39 |
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