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教育ってなんだ

 先月に引き続いての投稿なんて、僕にしては稀有なことだと自分自身でも驚いてしまいますが、教育(何かを教えること、教わること)について所見を書きました。

 

教育って何だ。

字のごとく教え育てると書くように、教育することの目的は教育することによって人を育てる、教育を受けた人たちが成熟するということが最終的に到達点になるのではないかと考えて話を進めてみることにしましょう。

私は小さな手作り靴工房を主宰していて、その中で自分と同じように靴を作って生きていこうと決意した面々に「WORKS(ワークス)」という専門課程で手作り靴を教えている。それももう丸13年も続けていて、今年の春からまた14期目が始まろうとしている。ある程度長いこと人に教えるということをしてきたので、私のようなものでも教育に関してこのような個人的主観を述べても許してもらえるのではないだろうかと思っている。

 

大見得を切って言うことではないが、ワークスでは何事においても「教えない」ということをモットーにしている。生徒がミシンがけをしている時に、おっとあれは失敗しそうだなと見ていて気づいたとしても、実際に失敗するか、途中で何かおかしいのではと生徒自ら手を挙げるまでは何も言わずに放っておくことにしている。そして案の定、失敗してミシン目がガタガタしたり針が折れてしまったりするのであるが、先にこういうリスクがあるからその時はこんな風にしなさいというようには教えたりしない。そんなことをしていたら、生徒たちに今後降りかかるであろう幾多のリスクを全て洗い出して逐一その対処法をレクチャーすることになるし、そうなったら一人前になるまでに何十年かかるか、もしくは一生その生徒の傍について教授しなければならなくなるだろうことは皆さんにも想像に難しくないと思う。ではどうしたら失敗するだろうことを事前にリスクヘッジできるのか。という問いが勘のいいみなさんの頭には既に浮かんでいることでしょうが、端的にいうとそれは教えてもらうことでは獲得できないということなのです。

それを言ったらあなたは靴の学校で何を教えているのかと疑問に思う方がおられるのは当然です。当ワークスで何を教えているのかと問われれば、「教えてもらわないことを教えている」と答えます。つまり今までの経験や身体で養った感覚をもとにして、教えてもらわなくてもそこにあるだろう危険を察知したり、見たことや経験したことがない事象にも対処できるようになることと言ったら分かりやすいでしょうか。

 

本屋さんのビジネス書棚で、成功者が教える「それをやればあなたも社長になれる」的な経営本を見たことがあるでしょう。カリスマ経営者がその人の成功体験を語っている類の本だと認識しているが(実は読んだことがないので誤認していたらごめんなさい)、私はその本を読んんだ人が本当にカリスマ社長の様になれるかどうかには懐疑的です。中にはそういう本に書いてあることを実践して社長になったという人はいることはいると思いますが、その本の著者と同じかそれ以上の地位や名声を獲得した人は聞いたことがないでしょう。なぜって、そのカリスマ社長は本人の先見の明や今まで誰もなし得たことがないイノベーティブさにおいて特筆していたが故に本に残るような成功者になったのであって、もう既に本になっているような既知の情報や使い込まれたスキルには、新しいものを想像する革新的な知見はもう含まれていないと考えられるからです。前述した失敗するリスクも成功するロジックも同じことです。この先に何が起きて、どのようなことをすれば適切なのかはそのものズバリを教えてもらうことは不可能なのです。だから、教えてもらわないでも分かるようになる人を養成しているのです。

 

教育の本質は教えて分からせるのではなく、教えなくても分かる人を育てることだと思っています。教えてもらうコトそのもの自体には、本質的に未来に生きていく上での有用な示唆は含まれていないことに等しいということでしょうか。つまり、本当に大事なことは教えてもらうことでは獲得できないということを学ぶことが重要だと考えるのです。そして、教えてもらってないことでも自分で考えて、適切な解を導き出せる人のことを、教育のある人成熟した人というのではないでしょうか。

 

ですから、ワークスでは手作り靴の基礎を1年間学んだら、もう後何年修業して研鑽を積もうが、すぐに独立開業しようがみなさんの自由です。そして、工房での経験と身体感覚、独自の想像力を駆使して、これからやってくるだろう荒波を乗り越えていってください。そこからは僕もみなさんも、修行年数や教え子という立場を超えて同じ土俵に立っていることを忘れないでくださいと伝えています。だって、何十年と靴作りを経験した達人も1年しか靴作りを教わっていない人も、この一寸先の未来ですら何が起こるかは誰にも分からないのですから。

 

| works | 16:30 |
手に託して生きる

 神奈川県の二宮という海沿いの町で、友人がパン屋を開業したという話を聞いてから4、5年は経ったでしょうか。その間に、靴工房を開いたことがきっかけで14年暮らした茅ヶ崎を離れ、生まれ育った埼玉に工房を移転しました。再び新しい環境へ飛び込んだことで靴工房もまた一からのスタートだと覚悟しながら駆け抜けた日々は、あっという間に3年の年月を数えました。そして先日、いつも気になっていながらもまだ行けずにいた(物理的にも心情的にも)、その友人が営むパン屋を遂に訪ねることができました。

 

 彼とは茅ヶ崎時代に知り合いました。ご夫婦が自宅でよく開いていたホームパーティーに呼んでもらったのがきっかけでした。交遊関係の広い人で、そのパーティーにはカメラマン、デザイナーやアーティスト、手づくり家具職人や菓子職人、時にはデンマークから来ていた彼の友人がいたりと、多種多様でインターナショナル。彼の魅力的な人柄とセンスが醸し出す空間と時間に僕を含めてその場の皆が刺激を受けていたように思います。その当時北欧家具の会社に勤めていてた彼が、どんな紆余曲折があって突然パン職人としてみんなの前に姿を現すことになったのか、正直なところそれを知る由も必要もないのですが、久しぶりに会った彼は(曰く8年ぶりだそう)、以前と全く変わらない屈託ない懐かしい笑顔で迎えてくれました。

 

 以前からパンと靴は良く似ていると思っていました。僕の靴の師は、自分の人生を手に託して生きると決めた時に、これから靴を作ろうかパンを作ろうかのどちらかを考えたという話を聞いたことがありました。パン職人は粉を練ってパンを焼き、片や靴職人は革から切り出して靴を作りますが、そのどちらも材料の状態からは全く違う形(立体物)に成形される。そうやって作られたものが人の暮らしに寄り添って生活を支えるものになるというところが似ているなと思っていたのです。そして、そのどちらも食べる人や履く人のことを思って作られたものはある種の美しさを備えています。美味しく食べてもらえるように、快適に歩いてもらえるようにと思いを込めて作られたものに宿る佇まいのようなものです。それと同じようなことを民芸運動の柳宗悦は「用の美」と言いました。華美に装飾され、これは国宝級なので使ってくれるなといった器より、何気ない普段使いの器にこそ「器」としての本来の美しさがあるということと似た感性ではないでしょうか。

 

 彼が作るパンにもその美しさがあります。棚に並べられたパンは自ら起こした天然酵母種から焼き上げられてふっくらと丸く、少し強めに焼かれた表面は噛めばパリッと音がするだろうと容易に想像できます。芳ばしい香りが今にもしてきそうな何とも美味しそうで美しい佇まいです。それは裏返せば、厳選した材料を使い美味しく食べてもらいたいと思いを込めて作ったものだからこそ出せる美しさなのだと思います。靴も同じで、奇をてらうデザインの靴があってその時は目新しいということで人気があったとしても、10年後、50年後にその靴のデザインが残っているかといえば、その可能性は時間が経つにつれて難しくなるでしょう。現在のスタンダードと言われている靴で皆さんが格好いいとか可愛いといっている意匠(デザイン)は例外なく「機能的デザイン」、つまり履く人に寄り添う形ゆえに時間を越えられたのだと言えるのです。

 

 履く人を特定ししないで作る靴は点の靴です。その時代に合っていてその時々に売れればいいという靴のことです。逆に履く人を想って手で作る靴は線の靴です。その人の暮らしに寄り添い、長く人生を共に歩いてゆく靴のことです。だから、これから靴やパンをやってみたいと思っている人で、沢山作ってたくさん売りたい人は手で作ってはだめなんです。逆に手に届く範囲の人の幸せを願いながら、地域に根をおろして何かを作ることを生業にしたいのなら、手で作ることほど自由で自在なことはありません。それが手に託した生き方ということだと思っています。

 

 最後に、彼と再会を願いながら握手をして別れましたが、握った手は厚みがあって温かく、しっかりとした職人の手をしていたことを書き添えておきます。

| 雑記 | 09:36 |
身体で感じることが大事なこと

 こんにちは!久しぶりの投稿で失礼します。

ある意味この書き出しも定型化してしまっていて少々心苦しいのですが、このブログを見て頂いている数少ないファンの方(いればの話ですが)へ細々と更新している次第です。

 今回は靴づくりと身体感についてお話ししようと思います。そう言うと靴を履くところの身体的反応や身体運用に関しての話と想像されるかと思いますが、ちょっと指向が違いますので興味がある方は読み進んでいただければ嬉しいです。

 

 さて、以前このブログで「妄想力」というお話をしました。その中で、手づくり靴の職人でも何でも、自分で実現したい夢や目標がある場合は本人の思考の中だけで精錬しているだけではダメで、それを言葉にして身体の外へ出すことが、自分を希望の場所へ連れて行ってもらえるパスポートになるのだということ。そしてそれは、一旦口走ったら周囲に対して引っ込みがつかなくなるからね、というような単純な思考ではなくて、本人の思考回路のレベルを一段階引き上げるようなことに近いのだろうと書きました。

 それを書いた当時は、どういう理路理屈でそのようなことを言っているのか論理的に証明するのは難しいが、自分自身が靴の世界で独立独歩を志向した20年の歩みの中で、身体感覚として感じ、実践してきた経験から出た言葉でした。

 

 先日ある本を読んでいてその理路理屈の一片が見つかったかもしれないという出会いがありました。それは医師であり合気道家でもある佐藤友亮氏の『身体知性』という著書の中でこう書かれています。

「心は身体によって作られている」

 西洋医学的には人の意思というものは単に脳の所業のように考えられていると認識していましたが、意思決定や判断には身体的な入力による経験、いわゆる情動とか感情といわれるものが大きく関わっていて、特にそれらは「正解」が分かっていない問いに対して「正しい判断」をするのに真価を発揮するのだと。

  

 就職や結婚、新しい仕事で独立するなどの「どうしたらいいか分からないとき」に「どうするかが分かること」は死活的状況においても生き抜く力があるのと等しいことを示しています。

 夢や目標を言葉にするということは、単に言語化する能力が備わっているからできるのではなく、自分を外部から俯瞰して可視化認知する能力、「メタ認知」があってはじめて今の自分の状態を言葉にして表現することができるようになるのです。外部から誰かに(自分に)見られていることを想定して自分自身の身体入力にいつも意識を巡らせていると、ここぞというときに、ここぞという場所で、この人に、対して有用な正しい選択ができるようになるということです。

 

 自分の身体的な感覚であった「夢や希望を言葉にして身体の外に出す」という概念に「メタ認知」ということばを与えてもらったことで、今この文言をみなさんに伝える判断に至った訳で、さてそれが正解か否かの答えは、これからのワークス生や手づくり靴を志向する次世代に委ねようと思います。

 

| works | 08:59 |
はじめの一歩

 先週末にワークス(靴の専修コース)の第12期生が修了を迎えました。

修了を迎えたといっても、一般的にそのような学校で行われるような卒業展や卒業式のようなものはなく、最終日に1年間ご苦労様という意味で軽食を用意して、一緒にランチをしながら毎年お決まりである(以前のワークス生はみなさんご存知)手づくりの記念品をお渡しすることをしています。そこでその時に思っている事を修了生にお話しするのですが、事前に考えている訳でもなく、その場で生徒達に贈る言葉として湧き出してきたことをお話しするので、ここにその時の話が支離滅裂だっただろうことを踏まえて加筆、校正して記録しておきたいと思います。

 

 さて、みなさんはワークスで1年間を過ごされて来て、入学した当初は当然靴づくりなど経験したこともなく、果たして自分に靴を作ることができるのだろうかと思われていたことでしょう。そして1年経った今、みなさんは立派に靴が作れる様になっている。課題であった基本構造の靴を数種類ではあるにせよ、作れなかったものを作れる様になったということは、単純に凄いと言って良いのではないでしょうか。

 

 話は私事なのですが、先日娘の卒園式に出席することが叶いまして、その時のことを少しお話しさせていただこうと思います。娘の通っていた幼稚園は、何事も諦めずに「できるまでやる」をモットーにされていまして、またそれと同時に何よりも園児それぞれの「できる」は当然違って良いという、園児の性格や特性、いわゆるパーソナリティーを尊重する理念を幹にして教育をされています。そこでの卒園式は一般に見られるような、卒園証書を渡して、みんなで歌を唄って、集合写真を撮るようなそれではなく、園児が年長期に練習してきた側転や懸垂逆上がり、跳び箱などを披露する場としてあるのです。園児はそれぞれ体格や特性の差がありますから、みんな同じく保護者が驚愕するような高さを跳べることが求められているのではありません。自分自身が設定した目標の高さの跳び箱や鉄棒で、その高さがクリアできたらまた一段上へと目標を一つ一つ諦めずに踏破してきた結果を、卒園時に保護者のみなさんへ披露するのです。だから、ハンディキャップのある園児は逆上がりではなく前回りだったりするのですが、それがその子が1年間努力して諦めなかった結果だから、その子だけ違う事をしていてどうかなどと思う保護者は誰一人としていないのです。入園した当初は何もできなかったのに、竹馬や逆上がり、高板登り、側転など、自分の目標に対峙して目の前の小さなことを一つずつ、一歩一歩あゆみを止めなかったからこそ目標にたどり着けたのだと思います。その点で言えば、幼稚園児も大人(実際幼稚園児を見て身を正す人もいるでしょう)も関係ないのだ、ということが強く心に響いた式でもありました。

 

 みなさんは、これから自分の工房を開いて靴で独立を果たしたり、他の仕事をしながらも靴づくりを続けていったり、自分やご家族の靴を作ることだけでも生活を豊かにすることが可能になるでしょう。靴にどのような形で関わっていかれるとしても、目の前の小さな一歩を踏み出さなければ何も始まらないのです。また言い換えるならば、どんな偉業や成功も或る日突然そうなったのではなく、必ず「はじめの一歩」があったということなのです。以前からワークスの卒業生等によく言っていることがあります。靴の仕事で独立したいのなら、職人さんの元で何年も修行して靴づくりの技術を学んだ人も、学校で1年修学して何とか基礎だけ習得した人も、靴づくりで独立して社会に出るということに関してはスタートラインは一緒だよ。ならば経験は1年そこそこでも、先に一歩踏みだした方が早く自分の目標に辿り着けると思わない?

 

 ワークスの入学説明会の冊子には、靴づくりは自分自身の生き方の表現であると書いています。手づくり靴は自分の手の内のことなので、自分が作りたい靴、作ってあげたい人、作っていきたい環境、そして望む社会を靴を使って表現すればいいのだと。だからといって、手づくり靴は一人だけで何でもできると謳っているのではありません。それでは独り善がりでしかありません。実は手づくり靴が成り立つためには、逆に社会でそのことが必要とされ、人々に求められていなければならないのも事実なのです。自分自身の存在は他者に生かされているという思いを持つことが、独立独歩で靴の道を歩んでいこうという心持ちとは背中合わせで、逆も真なりと言えるのでしょう。

 同じような意味のことを、京都市立芸術大学学長の鷲田清一氏が平成29年度卒業式式辞で明快に述べられおられます。私なりに解釈したところを、搔い摘んでいて恐縮ですが紹介させていただきます。

 

 「わたし」というのは、銘々がそう思っているほど確固としたものではありません。「わたし」の表現とは、じつは「わたし」の存在が負っているものすべての表現でもあります。その意味でいかにプライベートに見える表現も、同時に「時代」の表現なのです。そう考えると、「わたし」は、じつは時代がみずからを表現するときの<器>のようなものだということになります。そういう<器>として「わたし」に何ができるのか。みなさんにはそういう視点をいつも持ってほしいと思います。

 

 芸術についていえば、みなさんは内にある何を「表現」というかたちで外へ押し出すかをずっと考えてこられたと思います。けれども<器>という考え方は、これとは違います。<器>は何か別のものに充たされるのを待つからこそ<器>なのです。

 

 今日、みなさんの旅立ちへの餞の言葉としては、みなさんにはどうか芸術を人生の軸として生きることは、独創的な表現の<主体>になることではなくて、社会の<器>になることだということを心に留めておいて欲しいと思っています。

 

 

 器について言えば、民藝運動を率いた柳宗悦は、日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」があると説きました。靴もいってみれば足を受け止める器のようなものです。そして歩くことを厭わず、健やかな生活を送ることに寄り添うような靴が「美しい」靴だと言えるのではないでしょうか。

 みなさんも、自分が目指す美しい靴、良い靴とは何かを探求しながら、いままで支えてくれた人達や社会の中で何かを充たしてあげられるような、質素でも美しい器になれるよう、目前の一歩を踏みだしてください。

 

| works | 12:16 |
妄想力

 ノグチ靴工房が浦和に移転してから、この12月で3年が経とうとしています。そして今年は現在工房として借りている物件の3年契約が切れる年でもあるのです。自分の中では何となく更新はしないんじゃないかなというふうに思っていましたが、かといって実際に店舗物件を探すわけでもなく、あの妄想を抱くまではいつもの工房でそれまで通りの日常を過ごしていました。

 

 7月に入ったある日、木型クラスに在籍している生徒さんが浦和に店舗物件の良い出物があるのという話を教室中にされていました。その方、手先足先に関係するモノのネットショップを経営されていて、いつか浦和で「健康にいつまでも自分の足で歩ける自分でいるため」の実店舗を持ちたいと、その勉強のためにと工房の木型クラスに来られていたのでした。ただ、その出物物件は賃料がちょっと高くてとか、一棟貸しなので二階部分の使い道をどうしようかしらとか云々。

その時はそのまま話を聞いているだけでしたが、翌日になってなぜか気になって、気付いたらこんなメールを送ってしまっていました。送ったメールはこんな感じ。

 

 さて、不躾ですが昨日の実店舗のお話を聞きまして、ちょっと考えましたことを聞いて頂けたらとキーを叩いております。
 もし、店舗の2階などでスーペース的に余裕があり、その活用法にまだ構想の余地があるようでしたら、シェアオフィスならぬシェア工房として間貸しするという可能性はあるでしょうか。
  実は現在の工房はこの12月で3年の契約期間が終了し、新たに更新するか移るかを考えているところでして、もし色々な条件が合う事は前提でしょうが、スペースがシェアできたら面白いだろうなと勝手に妄想した訳なのです。
 茅ケ崎ロビィでも家具屋さんと場所をシェアして、双方向で様々な人と出会い交流し、新しい発見や仕事上でのアドバンテージがありました。
 最近当ワークスの卒業生でも、神奈川の大船にあるスイーツ・ファクトリーという、独立志願のお菓子屋さんへ向けたシェア物件を靴工房として間借りして、お菓子の面々と一緒に革雑貨を販売したり、ファクトリー製おやつ付きの革小物ワークショップを企画したりと、良い相乗効果が生まれているようです。
  この話は単に僕の妄想に過ぎませんので、失礼がありましたらご容赦ください。その妄想の一端だけでもシェア頂けたら嬉しいなと思って、突発的にメールしてしまった次第なのです。
 また、もしそのようなことが万一現実に起こるようでしたら、一番に手を挙げますのでお知らせください。

 

 表題にある妄想力とは謂わば夢をみる力のことです。こんなことが現実に起こったらいいな、あんな職業になってみたいなという夢を描く心のポテンシャルとでもいいましょうか。こういうのは月並みなのかもしれませんが、この時代は妄想することをやめてしまったように思います。夢をみることが許されない空気感が社会を支配していると言うべきでしょうか。その夢が成功するエビデンスがあるの?ところで成功してもそれっていくら稼げるの?というような空気です。周りもそうですが本人に至っても、世の中の現実と付き合わせてみて、そこから逸脱しているものは受け入れないし、受け入れて貰えないだろうと端から諦めてしまっているように感じるのです。でも考えてみてください。誰もが現実的にその場に留まってしまっていたら、この先に新しい発見や発明、人間の進歩というものは何処から生まれて来るのでしょう。妄想や夢を現実に変換するからこそ、この世の中に誰も見た事がない新たな発見や経験を獲得することことが可能になるのではないでしょうか。

ただし、妄想する(夢見る)ことは自分の日常にとっては非日常的なことです。いくら頭の中で夢や希望を思い描いたとしても、現実に戻るといつもの通勤の行き帰りに、ルーチンな仕事をこなして週末は疲れた身体を休めて心を充電する。そしてまたいつもの日常が始まってゆくといった具合にです。何を言いたいかというと日常生活は惰性が強いということです。仕事がキツくても、ストレスを感じていても、総じてそれらに慣れてしまっていることはないでしょうか。逆に夢や妄想を日常に転化することは違和感を伴います。それでもそれらを日常に引き出すことでしか現実は変えられないのです。その手段はというと、思い描いた妄想や夢を言葉にして自分の外に出すことだけです。それを一たび言ってしまったからやらずにはいられないものね、というのとは少し違うと思っています。自分の日常に楔を打つことで、もうすでにこれまでの日常とは違う日常を経験すること、それ自体で思考レベルが一段アップするようなことだと考えています。そうすると自分自身でも解らない何かに駆動され、伴って周りの人や環境も変化していくことが実感として解ってくると思います。

 何故そうなるのか詳細な経緯や理論を述べてみろと言われたら、はっきりと論述することは難しいと言わざるを得ませんが、手づくり靴を仕事にする中で、そういった経験を幾度となくしてきたことなので現に確かだと言う他ないのです。

その証拠に、今回も良い縁に恵まれたと言って間違いないのですが、実際に自分の妄想が現実になったじゃない。ということでご理解いただけるといいなと思っています。

大いに妄想力を働かせて、輝く未来の自分を想像してみませんか。

 

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